ましましの音楽日記
G.ヴェルディの作品をこよなく愛するオペラ愛好家による音楽日記です。筆者が鑑賞した海外でのオペラやコンサートの模様や、筆者自身が日頃行っている音楽活動などについて、不定期に綴っていきます。
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欧州行き(12年11月)⑦―マゼール指揮ミュンヘンフィル「ミサソレムニス」
11月30日午前、LH1843便にてローマからミュンヘンへ。午後3時すぎに宿泊先であるHotel Royalにチェックイン。ミュンヘン中央駅から徒歩数分に立地する3つ星ホテルで、清潔感のあるコンパクトな部屋が魅力的。カジノ等の立地するやや空気の悪そうな場所ではあるが、治安は特に問題はなかった。今回の旅程で滞在した街の中でミュンヘンは、極端に気温が低い。最高気温が0度前後で、日中は氷点下。郊外には、うっすらと雪が残っていた。

チェックイン後、クリスマスマーケットを散策。彼らのクリスマスにかける意気込みにはいつも驚かされる。コツコツと積み上げるドイツ人気質に感慨を覚えつつ、いったんホテルに戻り、休息。

午後7時半頃、ガスタイクへ。ロリン・マゼール指揮ミュンヘンフィルによる定期演奏会。ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」が採り上げられた。

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筆者が確保した座席は、Gブロック2列目上手側。この場所は1列目が存在しないので、実質的には最前列である。サントリーホールでいえば、RBブロックとRCブロックの間くらいに相当するであろうか。以前にJブロック4列目下手側中段付近に座った際には、木目調の豊かな響きとともに、割と音の分離が良い印象であったが、この日の座席では、舞台上から発せられる巨大な音像の壁に阻まれて、舞台の下手側の音が直接には届いてこない。加えて、右隣のFブロックの壁が間近に迫るため、音の響き方に歪みがあった。音の厚みが減るとそれなりにクリアに聴こえてくるのだが、全体としては妙に響きすぎている印象であった。

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さて演奏の方だが、オーケストラは、ミュンへフィルのクオリティに照らすと標準的なレベルは維持できていたものの、三夜続く演奏会の初日ということもあり、オーケストラの方はまだ完全には作品を掌握できていなかった模様。休符後の入りのタイミングで様子見となってしまう場面が見受けられ、響きの点でもやや大味な印象であった。

ベートーヴェンのスタンダードが身に沁み込んでいる彼らゆえ、オーソドックスなベートーヴェンの和声進行に関しては、申し分ないのであるが、「ミサ・ソレムニス」特有の響きが登場すると、座りが若干悪かった。「ミサ・ソレムニス」の世界観と正面から対峙しきれていないもどかしさが常について回った。

それでも、明るく伸びやかな音色とボリューム感は堪能でき、ドイツの様式を基礎に置きつつも、皆で仲よくアンサンブルをしようとする粋な雰囲気は、十分に伝わってきた。翌日、翌々日と演奏を重ねるうちに、演奏に落ち着きと深みが増してゆくであろう。

合唱は、ミュンヘン フィルハーモニック合唱団。大人数での出演である。演奏の方は、一応の水準ではあったが、可もなく不可もなく。キャスト陣も特筆に値するレベルではなかったが、安定感があり、総じて悪くはなかった。

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というわけで、この日は、マゼールの意図が十分に実現された演奏会とはいえなかったが、それでもマゼールらしさは随所に垣間見ることができた。

第一曲「キリエ」では、まとわりつくような粘着系のsostenutoが不思議な感覚を呼び起こす。中間部では、もぞもぞと何かが蠢くが、体温は上がらず。これだと、「憐れみ給え」などと言われなくても、憐れんでしまうかもしれない。

第二曲「グローリア」は、適度に筋肉質なサウンドで、奇異な点はなかったが、全体のバランスを図り、アンサンブルを整えながらも、ポイントを見定めてグッと盛り上げてくる手腕はさすがである。そして、in Gloria Dei Patris, Amenによるフーガに入ると、マゼールが仕掛け始めた。楽譜通りのはずだが、執拗なアクセントが妙に耳に残る。クライマックスは築かれたが、通常想定されるような華々しい幕切れとは何かが違ったような。

第三曲「クレド」は、色々な要素が盛り込まれているが、その尖った各々のエッセンスをそのまま丸裸にしてみましたと言わんばかりの変態ぶり。現代音楽に通ずる衝撃度であり、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲にも垣間見られる精神分裂ぶりが炸裂していた。中間部では、フルートが吹くパッセージを色濃く歌わせて目立たせていたが、これは次の「ベネディクトゥス」への伏線になっていたことに後で気づかされた。

第四曲「サンクトゥス」は、冒頭の静寂の具合が絶妙だ。「ベネディクトゥス」では、コンサートマスターのスレテン・クルスティクによる独奏ヴァイオリンの旋律が凛として美しく、安心して心を委ねられるのが良い。

第五曲「アニュス・デイ」は、マゼールの横顔に初めて人間の血が通い、カンタービレがグッと心に迫る。トランペットとティンパニによる戦争の暗示の効果もピリッと決まり、充実の終曲となった。


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この日のマゼールは、オーケストラのコンディションを踏まえたためか、やや大人しい感じで、手堅くまとめることに注力していたようだが、ひとたび彼が仕込んだネタが全開になれば、期待を裏切らない変態演奏が繰り広げられたであろうということは想像に難くない。マゼールの手にかかると、ミュンヘンフィルすらもお子様扱いになってしまうのだということを痛感させられる一夜であった。いったいマゼールは、どれだけの引き出しを持っているのだろうか。来年4月の来日公演では、是非ともその変態ぶりを如何なく発揮していただきたい。

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終演後は、ガスタイクの隣にあるHilton City併設のレストランで、軽く食事を採る。ドイツのビアレストランであれば、ビールが美味しいことに間違いはないから、まともそうなレストランを選べば、外れることはない。ドイツ人らしい一生懸命なサービスを受けつつ、小一時間ほど滞在し、ホテルに戻る。


(公演情報)

Freitag, 30.11.2012, 20:00 Uhr - Philharmonie im Gasteig

Beethoven "Missa solemnis" D-Dur op. 123

Lorin Maazel, Dirigent
Joyce El-Khoury, Sopran
Daniela Barcellona, Mezzosopran
Christian Elsner, Tenor
Albert Dohmen, Bass
Die Münchner Philharmoniker
Philharmonischer Chor München
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[2012/12/02 17:44] | 海外視聴記(ミュンヘン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
ケルン・ミュンヘン行き(11年12月)③―マゼール指揮ミュンヘンフィル―ワーグナーとブルックナー
12月11日午前10時半ころ、ガスタイク文化センターへ。ロリン・マゼール指揮ミュンヘンフィルによる定期演奏会。ワーグナーとブルックナーの作品が採り上げられた。

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チケットは早期に完売で、ホール内はほぼ満席。ミュンヘンフィルは、来シーズンより期間限定でマゼールを首席指揮者に迎え、建て直しを図っている。客演する指揮者のラインナップの充実度には、目を見張るものがあり、現在最も勢いのあるオーケストラの一つといえる。

筆者の座席は、Jブロック4列目で、下手側中段付近。ガスタイクのホールは、左右非対称な形状で有名だが、音響は抜群で、筆者の座席では、適度な残響に包まれた木目調の柔らかい響きが堪能できた。

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プログラム前半は、ワーグナーの作品。一曲目は、「タンホイザー」から序曲とバッカナール。パリ版をベースにしたバージョンで、両者は続けて演奏された。

マゼール御大は、神妙な趣きで静かに指揮台に上がり、序曲冒頭の巡礼の合唱を、遠方からゆっくりゆっくり紡ぎ出し始めた。弦楽器が旋律を歌い出すと、音楽は徐々に前方へ。巡礼の合唱が眼前を通り過ぎるも、すぐに遠ざかり、彼方へと沈んで行った。
次に登場するバッカナールの旋律では、鮮やかな色彩感が煌いた。タンホイザーの旋律は、俄然やる気。畳み掛けるように突き進み、豊麗なオーケストラのサウンドが舞台上から湧き上がる。フォルテでガツンと楔を打ち込むあたりに、マゼール流のデフォルメが垣間見られる。
2人のソロヴァイオリンとクラリネットにより表現されるタンホイザーとヴェーヌスの対話は、優美な主旋律と滑舌の良い対旋律が見事に絡み合い、本当にしゃべっているようであった。

「バッカナール」に入ると、抑え気味だったオーケストラが一気に花開き、ヴェーヌスベルクの官能の狂宴が繰り広げられる。これは圧巻。舞台の情景が目に浮かぶようだ。音楽的な完成度も極めて高く、こういう曲だったのか、と初めて腑に落ちた。筆者が過去に聴いた演奏の数々は、いったい何だったのだろうか。
愛欲のバレエがこれでもかとばかりに描かれた後、末尾では「タンホイザー」の幕切れ直前を想起させるような悟りの境地が描かれ、20分に及ぶドラマは、静かに幕を閉じた。

客席は呆気に取られた様子で、ブラボーすら叫べない。「タンホイザー」のストーリーとエッセンスを濃縮したような密度があり、これだけでも、だいぶお腹がいっぱいである。

二曲目は、「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死。

「前奏曲」冒頭は、例によって、止まりそうなほどのスロースタート。いや、ほぼ止まっていた。それゆえ、ホール内の空気は、依然として、直前に演奏された「タンホイザー」の末尾に窺われた神妙さの延長線上にある。
音程を上げながら三回繰り返されるトリスタン和音が適度な緊張感と粘着度で示されると、「愛の動機」の無限旋律が相互に絡み合い、二重らせんを描きながら天へと昇って行く。小さな流れが徐々に集結し、脈々とした大きな流れへと発展していく過程は、実に見事。キメが細かく、響きに一寸の淀みも感じさせないあたりが凄い。

続く「愛の死」では、トロンボーンのコラールの高貴な優しさに心を奪われる。大きくうねる旋律により導かれるクライマックスは、歌心に満ちているが、遠くから眺めるような枯れた表情でもある。マゼール御大の深い愛情が注がれていた。
そして、全てを語り終えると、音楽は、静かに、そして穏やかに収束し、優しい微笑みとともに幕を閉じる。

二曲合わせて50分。とてつもないワーグナーであった。演奏後も、神妙な趣きを変えることなく、でもちょっとだけシタリ顔で、ゆっくりゆっくり舞台から引き上げる御大の背中は、いつも以上に大きく見えた。

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プログラム後半は、ブルックナーの交響曲第3番。ワーグナーからの引用が多く含まれ、プログラム前半との関連性が強い。

こちらは、マゼール御大のやりたい放題。神妙な趣きであったプログラム前半とは対照的だ。

第一楽章は、御大の若き頃を髣髴とさせるような好き放題ぶりだったが、御大がやると、それらが全てバシッと決まるから、許せてしまう。
冒頭は、あえて速めのテンポで開始したが、クレッシェンドに合わせてどんどんブレーキをかけ、フォルテのユニゾンで最大限のデフォルメをかける。作為的に聴こえないのが不思議だ。あまりに見事なマゼール節に、聴いていて腹がよじれそうだった。プログラム前半では控え目だった金管セクションも、要所で豪快に鳴らし、サウンドに十分な量感をもたらしていた。また、まとわりつくような第二主題や、トリスタン和音を想起させるフレーズの処理には、プログラム前半との親和性が強く感じられた。
展開部、再現部を通じて、マゼール御大の構成力には、ただただ脱帽するのみ。モチーフの性格付けが首尾一貫しており、前向きなフレッシュさと回顧的な穏やかさとがくっきりと描き分けられていた。この作品の一般的な世界観を超越してしまっているようにも感じられた。
コーダでは、C-H-B-Aの下降音型が遠くから徐々に迫ってきて、ややシビアな空気のまま、結尾に至る。

第二楽章は、一転して真面目なモード。美しく内向的な旋律は、明るく伸びやかで、どこまでも澄み渡っている。他方で、この楽章では、書法にワーグナーの影響が反映されているため、プログラム前半の神妙さも影を落とす。まるで自伝のようであった。飽くなき挑戦を続けてきたマゼール御大による昔語り。最後は、その軌跡を回顧し、静かに見守るかのように、穏やかに収まった。

第三楽章は、スケルツォをスマートに決めたかと思うと、トリオの田舎風の旋律が羽目を外して飛び回る。マゼール御大の挑戦は、まだまだ続く。

第四楽章も、冒頭からストレートで、推進力があった。もちろん、マゼール節も全開。第二主題では、4小節目3、4拍目で執拗な溜めを入れる。これは、5小節目のmfで豊潤なサウンドをドッと湧き上がらせるための仕掛けと思われるが、慣れない奏法にオーケストラの方がビビッてしまい、十分に活きてなかったのは、もはやご愛嬌。第二主題の音型の対旋律として、朗々と歌う管楽器の2分音符の雄大さは、実に立派だった。
澄んだ響きで、明るく前向きに音楽が進んでゆくが、中盤でシンコペーションが連続する混迷の箇所では、あえて響きをグチャグチャにして、おどろおどろしく仕立てる。これがターニングポイントとして機能し、音楽はクライマックスに向けて直進。第一楽章冒頭のテーマが戻り、大団円。痛烈なアクセントも期待通りで、マゼール御大による勝利の賛歌が鳴り響いた。

ブルックナー信者が聴いたら、腹の底から煮えくり返って激怒しそうな演奏。しかし、「そもそもブルックナーとは」という台詞とともに、古臭い演奏スタイルに固執し続ける頭の固い輩に対するアンチテーゼとして、非常に新鮮なブルックナーであった。
また、ミュンヘンフィルの巧さも、尋常ではない。ブルックナー演奏に関しては、世界一ではなかろうか。弦楽器の分散和音や、木管楽器のオブリガートが、響きの遷移を見事に浮かび上がらせていた。細部をここまで磨き上げられる技術力と合奏力、そしてそれを支える意識の高さは、他のオーケストラ団体の追随を許さない。

カーテンコールでは、マゼール御大にようやく笑顔が見られる。しかし、おそらくこれも計算済みの演技。一流の役者である。オーケストラを立てる立ち振舞いも素敵だった。

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幼少時から神童と呼ばれ、数々の名門団体の舞台を渡り歩きつつも、いわゆる頂点と称されるポジションには恵まれなかったマゼール御大。意外と苦労人である。非凡な才能に溺れることなく、絶えず挑戦を続けてきた芸風が、ここに来て、見事に結実しつつあるように思われる。筆者もこういう年の取り方をしてみたいものである。

終演後は、徒歩でマリエン広場へ。有名レストラン、ドニスルに入るも、店内には観光地ズレした嫌なムードが立ち込めており、案の定、料理もサービスもクオリティは低い。さっさと飛び出し、ミュンヘン工科大学の近くにある麺処「匠」ミュンヘン支店で食べ直し。黒霧島ロックを嗜み、味噌ラーメンを食す。至福のひと時。

夕方、ホテルに戻り、荷物をピックアップした後、午後6時すぎに再び、バイエルン国立歌劇場へ。バレエ公演「イリュージョン―白鳥の湖のように」を、最上階の端の座席で途中まで観劇。舞台は半分くらいしか見えなかったが、初めて観た本場のバレエは、バレエの面白さを筆者に教えてくれた。立ち位置や各役者の仕草が実に艶やか。舞台上の動きにテンポ感がある。なお、オーケストラピットには、バイエルン国立歌劇場管が入っていたが、こちらは明らかにぶっつけ本番で、音が荒れていた。

午後10時前に退席し、ミュンヘン中央駅へ。そして午後10時47分発のシティナイトラインCNL418でケルンに向かう。シティナイトラインも今回が乗り収めだ。午前5時43分にケルン中央駅に到着し、約1時間の乗り継ぎで、タリスに乗車。いつものように、ブリュッセル中心部の鉄道渋滞のため、ブリュッセル南駅には18分の延着。もはや何も言うまい。

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(公演情報)

Sonntag, 11. Dezember 2011, 11:00 Uhr
Die Münchner Philharmoniker
Lorin Maazel, Dirigent

Richard Wagner / Ouvertüre und Venusberg-Bacchanale aus "Tannhäuser"
Richard Wagner / Vorspiel und "Liebestod" aus "Tristan und Isolde"
Anton Bruckner / Symphonie Nr. 3 d-Moll (Endfassung 1889)
[2011/12/15 07:09] | 海外視聴記(ミュンヘン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
ケルン・ミュンヘン行き(11年12月)②―メータ指揮バイエルン国立歌劇場「トゥーランドット」
12月10日、昼過ぎにホテルを出て、ミヒャエル教会、フラウエン教会、マリエン広場のクリスマスマーケットなど、ミュンヘン中心部の代表的な名所を散策。ミュンヘンに泊まるのは三回目だが、過去二回は演奏会に足を運んだだけで、ろくに観光をしていなかった。マリエン広場近くのレストランPfistermühleで、昼食として、ガチョウのテリーヌとミュンヘン風ターフェルシュピッツを。トリップアドバイザーで高評価を得ているだけあって、サービスはキチンとしているし、愛想も良い。値段はそれなりだが、味も上々で、久々に気持ちよく食事をすることができた。

夕方、いったんホテルに戻り、態勢を整え、午後7時前にバイエルン国立歌劇場へ。ズービン・メータ指揮バイエルン国立歌劇場による「トゥーランドット」。今シーズンのプレミエで、この日は3回目の上演にあたる。劇場内は満席。この演目は、発売開始時からかなりの競争率で、良い座席を確保するのに一苦労した。

筆者の座席は、3.Rang中央1列目。オーケストラピットまで見渡すためには、身を乗り出さなければならないが、視野、音響ともに、そこそこバランスの取れた場所で、悪くはない。

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このプロダクションは、先週のプレミエ以来、物議を醸し出している話題作である。そもそも設定が痛烈だ。舞台は2046年のヨーロッパ、その時点から30年以上前、つまり現在の欧州経済危機を受け、欧州に存在する全ての債務、所有権、自然資源が中国に買収されて以来、欧州全域は中国法の統治下に置かれており、氷のような心の持ち主トゥーランドットによる欧州市民の扱いは、まるでビッグブラザーのようだというもの。シニカルな設定だが、欧州人にとっては単なるジョークとして笑い飛ばせない現実味がある。

カルルス・パドリッサが採った手法は、近時の現代版演出によく見られるCG多用型の演出で、その作り込みは尋常ではなかった。スクリーン、紗幕、白ベースの大道具を効果的に活用し、鮮烈な画像を映し出すばかりでなく、アナグリフ用赤青メガネを観客全員に配布し、立体映像まで見せようというもの。
もっとも、アナグリフによる立体映像に関しては、各幕で用いられてはいたものの、第二幕でトゥーランドットが残酷な謎解きを始めるに至った経緯を語る場面で、その内容に呼応するレトロ調の映像を映写した以外は、単なるCGにすぎず、どれほどの効果があったかは疑問だ。後述のとおり、赤青メガネを付けたり外したりという余計な動作を求めた結果、観客の集中力が殺がれ、劇場内の緊張感が保たれなくなったというデメリットが生じており、こういった手法については、さらなる研究が必要と思われる。

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なお、その他に関しては、悪くはないが、漢字への理解が薄い外国人が漢字を多用した結果として滑稽な装飾に終わってしまうという、この作品でよく見られる違和感を克服できなかったのは惜しかった。また、サーカスのような演技の数々は、最近の流行なのかもしれないが、シナリオとの関連性は低く、今回の演出プランの中では無くてもよい要素であった。

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さて、上演の方だが、幕別にみると、第一幕では、冒頭の合唱が弛緩気味だったのが気になった。大人数で、迫力は十分なのだが、ワーッと勢いで押し切る歌唱法で、拡散傾向にあったため、各フレーズの後半でオーケストラのテンポ感から遅れてしまう場面が散見される。メータは何度もテンポの引き締めを図るが、なかなか改善せず、結局、これがこの日の上演の流れを決定付けてしまった。なお、この後、舞台奥から登場した天使のような子供たちの合唱は、一歩一歩進むステップと音楽が呼応していて、なかなか良かった。
続く、ペルシア王子の処刑の場面は、ドラマティックに盛り上がっていたと思われるが、赤青メガネの付け外し及びこれに伴い客席から大量に発生するノイズに気を取られてしまい、集中して鑑賞することができず。ピン・パン・ポンは、脇役らしく地味に役をこなしていたが、キレが足りなかったかもしれない。
第一幕の見せ場、リュウの「お聞きください、王子さま」とカラフの「泣くなリュウ」は手堅くまとめていたが、音楽的にジーンと浸れる瞬間はなかった。リュウ役のエカテリーナ・シェルバチェンコがもう少し情感を出せると、ぐっと印象が変わったはずなのだが。
ともあれ、幕切れは、堂々としたクライマックスで、グランドオペラの醍醐味が味わえる盛り上がりであった。

第二幕は、冒頭の演出に問題があった。舞台中央にドクロが大量に並べられているが、大きな一枚の網に括り付けられており、音楽の流れに合わせて、それらが波打ったり、上空に舞い上がったりする。その都度、大量のドクロがゴトゴトと音を立てて動き回るので、観客としては、音楽に全く集中できない。ピン・パン・ポンの歌唱も弛緩気味で、緊張感はいま一歩。
場が変わり、皇帝の登場の場面に至ると、バンダのファンファーレがテンポから大きく乗り遅れる。これにつられるかのように、合唱やオーケストラも大味なテンポ感に至り、拡散傾向に歯止めがかからない。プレミエも3回目の上演になると、演奏者側に慣れが出てきて、緊張感が続きにくくなるのだろうか。
トゥーランドットが登場すると、赤青メガネの設置が促された。舞台中央上空に宙吊りにされたトゥーランドットから、レトロ調の映像が眼前に飛び出してくるという仕掛けは、話としては納得できたが、他の代替手段もあり得たように思われた。結局、この場面では、赤青メガネを設置したため、視野が狭くなり、舞台全体の進行を追いかけることはできなかった。なお、トゥーランドット役のジェニファー・ウィルソンによる独唱は、張りのある立派なものだったが、最高音ないしそれに次ぐ音を張り上げる箇所では、叫び声に近い硬さがあり、表現がやや陳腐なものになってしまっていたのが残念。このあたりまで含めて余裕を持って歌わないと、ドS女性の王道を行くトゥーランドットの真の姿は浮かび上がらない。
対して、カラフ役のマルコ・ベルティの歌唱には、安定感があった。自分勝手で空気が読めないカラフという役柄を考えると、あまり人情味を醸し出さず、直線的に堂々と歌いきってしまった方が良いのかもしれない。
なお、メータは、謎解きの場面で、オーケストラの合いの手を実に引き締まったリズム感で挿入し、拡散傾向にあった音楽の流れの引き戻しを図る。これは、ある程度は功を奏し、その後に現れるカラフによる謎かけや皇帝賛歌の場面への伏線となった。クライマックスで緊張感を高め、幕切れにおいて手に汗を握るような壮大なスペクタルを演出したメータの貫禄は、さすがである。

第三幕冒頭では、充実の音楽に支えられ、有名なアリア「誰も寝てはならぬ」がカラフ役のベルティにより堂々と示される。メータは音楽をいったん中断し、客席からの拍手を誘う。これにより、劇場内に立ち込めていた微妙な空気が融解。音楽のテンションが上がり始めた。
その後は、カラフを誘惑するシーンで、トップレスな女性やフィギアスケーターが登場するなどのネタが混じり、これらは正直不要と感じたが、音楽に集中できる環境がようやく出来上がってきていたので、個人的にはそれらは無視した。
そして、第三幕最大の見せ場、リュウのアリア。手堅くまとめてはいたが、涙を誘うような仕上がりではなかった。リュウ役のシェルバチェンコには感情表現の点でもう一歩踏み込んで欲しかったと感じたのは筆者だけだろうか。ともあれ、リュウの死が印象的に描かれ、舞台はその死を悼む葬送の場面で幕。今回のプロダクションでは、メータの判断により、プッチーニの絶筆部分で終了となった。唐突にハッピーエンドに至る補筆部分の流れに違和感を覚えていた筆者としては、今回の判断には納得がいった。

言うまでもなく、カーテンコールでは、メータに対してブラボーの大合唱が客席から飛び、マエストロの奮闘に対する最大限の賛辞が送られた。

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ここで、今回のプロダクションについて筆者が感じたことを若干書き記しておきたい。

率直に言って、パドリッサの演出プランは、プッチーニの描いた音楽のメリハリとは、完全には呼応していなかったように思われる。舞台上に意識を向ければ、メータが創り込んだ音楽が頭に入ってこないし、逆に、演奏に集中すれば、舞台上の動きが腑に落ちてこない。
そもそもオペラは、台本とこれに沿った音楽から成り立つ。テクストに基づき、演出家の立場から、あれこれと試行するのは構わないが、音楽に携わる立場から言わせてもらえば、音楽が静かな場面では、舞台上も静寂を保って欲しいし、逆に音楽が盛り上がる場面では、舞台上も高揚感を醸し出して欲しい。五感が全て感化されるクライマックスの創出こそが演出家の腕の見せ所ともいえる。
終演後、今回の上演中に筆者が感じた若干の違和感の原因をしばし考察してみたが、パドリッサの演出プランの中に、音楽の流れと呼応しない要素、つまり、目新しさからやってみたという通俗的な要素が散見されたことが、チグハグな印象を残した最大の理由であろうとの結論に至った。構成自体は悪くなかっただけに、惜しい限りである。

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なお、メータの指揮姿から想像するに、メータはもっと引き締まった音楽を志向していたと思われる。しかし、この日は、大掛かりな舞台装置とも相まって、キャストや合唱が拡散方向の歌唱にシフトしてしまったため、路線を修正し、グランドオペラ風の大味な流れで全体を運んだのではなかろうか。
劇場内の空気がもう少し張り詰めていれば、また、赤青メガネの付け外しや、舞台上の雑音がもっと少なければ、一瞬即発の圧倒的なパワーが音楽に漲っただろう。メータの指揮するバイエルン国立歌劇場管の演奏を聴く限り、オーケストラのサウンドには、きめ細かく創り込まれた痕跡が多数窺われた。しかし、この日の上演において、そういった努力が十分な効果を導くに至らなかったのは、心残りでならない。
とはいうものの、悪条件の中でも、音楽的な緊張感を絶やすことなく、一本筋の通った上演を仕立て上げる職人メータの手腕には、心底驚かされた。

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ともあれ、筆者個人としては、オペラ上演のあり方の大事な部分を学んだ内容の濃い一夜であった。

終演後は、オペラ座前の有名レストラン、シュパーテンハウスへ。愛想は悪くないが、客で溢れかえっていて、落ち着いて食事をすることはできなかった。また、ワイン酒場という割には、グラスワインの種類が少なく、さっさと食事をして早々に引き上げた。


(公演情報)

Turandot
Giacomo Puccini

Saturday, 10 December 2011, 19:00 Uhr
Nationaltheater

Conductor Zubin Mehta
Production Carlus Padrissa – La Fura dels Baus

La principessa Turandot Jennifer Wilson
L'imperatore Altoum Ulrich Reß
Timur, Re tartaro spodestato Alexander Tsymbalyuk
Il principe ignoto (Calaf) Marco Berti
Liu Ekaterina Scherbachenko
Ping Fabio Previati
Pang Kevin Conners
Pong Emanuele D'Aguanno
Un mandarino Goran Jurić
Il principe di Persia Francesco Petrozzi

Kinderchor Kinderchor der Bayerischen Staatsoper
Extra-Chor Extrachor der Bayerischen Staatsoper

The Bavarian State Orchestra
The Chorus of the Bavarian State Opera
[2011/12/13 07:31] | 海外視聴記(ミュンヘン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
ライプツィヒ・ミュンヘン行き(11年11月)③―メータ指揮バイエルン国立歌劇場「フィデリオ」
11月27日昼前、LH2167便にてライプツィヒからミュンヘンへ飛ぶ。ミュンヘンは南ドイツに分類されるだけあって、気候がだいぶ温暖だ。空港到着後、Sバーンで中央駅に向かい、宿泊先であるキングス・ホテル・ファースト・クラスにチェックインした。なお、このホテルは、中央駅から徒歩数分で、立地は悪くない。室内もクラシックなテイストで、落ち着いた雰囲気だが、バスタブがなく、インターネットの使い勝手も悪いなど、4つ星とはいっても、値段相応というところか。

午後7時すぎ、バイエルン国立歌劇場へ。この日は、ズービン・メータ指揮バイエルン国立歌劇場による「フィデリオ」。カリスト・ビエイトが演出を担当した2010年12月プレミエのプロダクションで、今回はその再演である。

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バイエルン国立歌劇場の内部は、とりわけ美しい。他の歌劇場にはない格調の高さが感じられる。大きなシャンデリアは、それ自体が絵になる輝きを放っていた。

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筆者の座席は、2.Rang下手側で、オーケストラピットの真横。オーケストラピットの中を見渡せる筆者好みの場所だ。劇場の音響は、抜群に良く、柔らかく中身の詰まった響きが、舞台上からも、オーケストラピット内からも、立ち上がっていた。

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序曲として、レオノーレ序曲第3番が演奏された。冒頭からメータ&バイエルン国立歌劇場管の好調さが感じられる。ベートーヴェン演奏の模範ともいえるような折り目正しい正統派の演奏。引き締まったリズムが心地よい。また、ピアニシモの響きの秀逸さには、舌を巻いた(実は、この曲では透き通った弱音部を演出することが壮絶に難しい。)。コーダも、演奏不可能になるほどの加速をかけて勢いだけで盛り上げる演奏が多い中、メータは、煽らず、八分音符単位の時の流れを感じさせつつも、鈍重になることなく、適度な高揚感を演出。ほぼ完璧な仕上がりであった。

幕が開いても、緊張感が途切れることはない。ベートーヴェンの音楽との真っ向勝負に挑むメータのタクトに、一点の曇りもなかった。音楽はさらに引き締まり、やや低めの重心で筋肉質な響きにより、テンポよくストーリーが展開する。他方で、前半の四重唱に見られた淡い響きの移ろいも魅力的。キャスト陣の声が沈みがちで、懐の大きいオーケストラの流れに対して、声を乗せていけていなかったのが残念。

ロッコ、レオノーレ、マルツェリーネによる三重唱、そしてドン・ピツァロの登場あたりからは、舞台上の演技にも熱が帯び、劇の流れに惹き込まれる。場面転換でわずかにアクセルをかけ、高揚感と期待感を醸し出すメータのタクトには、巨匠の貫禄が窺われる。ベートーヴェンの書法の不器用さゆえ、音楽が弛緩しそうになる場面も垣間見られるが、メータは、予兆を察知するや否や、身を乗り出してグッと手綱を引き、流れを引き戻していた。

第一幕の山場、レオノーレのアリアでは、ベートーヴェンの理想の女性像が描かれるが、レオノーレ役のアニア・カンペは、音楽のスケールの大きさに負けてしまった印象だった。キチンと歌えてはいるが、肝心なところで逃げに入ってしまい、エネルギーの爆発が生まれない。もっとも、見るからに歌いにくそうなアリアであり、やむを得ない部分もあるかもしれない。

囚人たちの合唱も、厚みと奥行きがあり、見事。一つのクライマックスが築かれ、幕が下りた。

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第二幕は、フロレスタン役のペーター・ザイフェルトが圧倒的な声量と存在感でアピールをしたが、振り返ってみると、ドラマチック一本槍で、変化に乏しかった。

レオノーレとロッコの二重唱になると、音楽の緊張度はさらに高まり、迫真のドラマが展開していく。メータのタクトにも、一段と気合いが漲る。フロレスタンを殺害しようとするピツァロの前に、レオノーレが飛び出してくる場面は、音楽的にも演出的にも手に汗を握る瞬間であった。第一幕では抑え気味であったレオノーレ役のカンペも、第二幕ではエネルギー全開で、体当たり的な歌唱が感動をそそる。

歓喜の二重唱の後には、檻に入れられ舞台上から吊られた弦楽四重奏団により、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番から第3楽章が演奏された。これは実に粋な計らいで、再会の歓びがジーンと心に沁みる効果をもたらした。

そして、フィナーレは、音楽のエネルギーが至るところで噴出。感動的な幕切れとなった。

この日は、マエストロメータの独壇場であった。ベートーヴェンに対するメータの真摯な姿勢、ひたむきな情熱に、劇場全体が突き動かされた公演であったといえる。

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それゆえ、救いのない孤独な世界を描いたと言われるビエイトの演出も、メータの導く崇高な世界を前に、影が薄まって感じられた。なお、このプロダクションは、その斬新さと鮮烈さで、プレミエ当時から話題を集めているが、チューリッヒ歌劇場の演出の強烈さに比べれば、許容範囲内だろう。コンピュータゲームの画面のような舞台装置や空中ブランコなどの不可思議な要素も多く見受けられたものの、シナリオ上の山場を外すことはなく、見応えはあった。序曲をレオノーレ序曲第3番に差し替え、ストーリーを暗示するような演技を行わせたのは、作品全体に一貫性をもたらす意味で、効果的であったといえる。ただ、オーケストラが弱音を奏でている際に、無用に人が動き回り、ゴトゴトとノイズが入るのは頂けなかった。

なお、キャスト陣に関しては、いずれも水準以上であり、バランスも取れていた。ただ、エネルギーの噴出という意味で弱さのあったレオノーレ役のカンペ、一本槍で単調なフロレスタン役のザイフェルトは、メータの導いた音楽の大きさに照らすと、85%程度の仕上がり。ピツァロ役のアルベルト・ドーメンは、第一幕では、なかなかの存在感を示したが、シナリオ上、第二幕での存在感が薄くなるためか、カーテンコールでの盛り上がりはいまいちであった。ロッコ役のスティーヴン・ミリングは、出だしは良いが、すぐに音楽が緩み、締まりのない歌唱になる傾向が顕著で、やや不満。マルツェリーネ役のアンナ・ヴィロフランスキーと、ヤキーノ役のユッシ・ミリスは、演技では気を吐いていたものの、肝心の歌唱では不安定な箇所が散見された。

というわけで、カーテンコールも、マエストロの登場で、爆発的なブラボーの大合唱に。

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終演後は、アウグスティナーブロイにて、グリルした肉の盛り合わせとビールを数杯。いつも思うが、ドイツ料理は一皿が巨大。ここもいわゆる有名ビアホールの一つということで、味は普通。小一時間で夕食を済ませ、ホテルに戻る。

翌朝は、LH2284便にてブリュッセルへ。午前中は休暇を取り、午後から出勤。


(公演情報)

Fidelio
Ludwig van Beethoven

Sonntag, 27. November 2011, 19:00 Uhr
Nationaltheater

Musikalische Leitung Zubin Mehta
Inszenierung Calixto Bieito
Bühne Rebecca Ringst
Kostüme Ingo Krügler
Licht Reinhard Traub
Choreographische Mitarbeit Heidi Aemisegger
Produktionsdramaturgie Andrea Schönhofer
Chöre Sören Eckhoff

Don Fernando Goran Jurić
Don Pizarro Albert Dohmen
Florestan Peter Seiffert
Leonore Anja Kampe
Rocco Stephen Milling
Marzelline Anna Virovlansky
Jaquino Jussi Myllys
1. Gefangener Dean Power
2. Gefangener Tareq Nazmi

Bayerisches Staatsorchester
Chor der Bayerischen Staatsoper
[2011/11/29 07:48] | 海外視聴記(ミュンヘン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
欧州行き(11年4月)⑤―スナイダー指揮 ミュンヘンフィル 「幻想交響曲」
4月28日、午前中にブリュッセルの中心街で所用を済ませた後、昼過ぎにLH2289便にてミュンヘンへ。到着機の遅れで30分の遅延。Sバーンで中央駅に向かい、インターシティーホテルにチェックイン。荷物を置いたその足でガスタイク文化センターへ。

blog20110428-01

ガスタイクは、中心部の西側を流れるイーザル川を渡ってすぐの場所にある。
複合文化センターで、敷地内には緑も多く、その立地は、東京文化会館に少し似ているかもしれない。

この日の演目は、当初は、ジンマン/ミュンヘンフィル/ブルックナー7番という非常に刺激的なプログラムだったが、なんとお目当てのジンマンが降板。ニコライ・スナイダーという指揮者が代役を務め、曲目もベルリオーズ/幻想交響曲に変更だという。これだけでもすでにテンションは急降下だが、せっかく来たので諦めて会場内に入る。

blog20110428-02

前半のモーツァルト/ピアノ協奏曲ニ短調KV466では、ソリストであるPitor Anderszewskiは、繊細な響きでそれなりに健闘していたと思われるが、ホールのせいか、本人のタッチの問題かわからないが、音色が単調で、余韻には深みが伴わないし、強奏部分や高音では音色の硬さが耳につく。前日に聴いたネルソン・ペライアには遠く及ばなかった。
オーケストラは対抗配置。ピアノ協奏曲という曲目の性質上、ステージ上では、一列分奥に入った位置に配置されていたが、少なくとも筆者の席で聴いた限りでは、1stヴァイオリン以外の弦楽器の音が飛んでこない上に、中低弦の出だしが遅れて聞こえてくる。

後半の幻想交響曲では、オーケストラの配置が戻ったため、弦楽器のバランスは改善された。しかし、特に弱音部分では停滞が著しい。サウンドトラックを聴かされているかのような錯覚に陥った。

今回の原因は、全て指揮者にあるといわざるを得ない。
代役であるという事情を考慮したとしても、それ以前の問題であると感じた。
そもそも、指揮棒から音楽が全く流れていない。何をやりたいのか全く不明だし、曲に対して共感を持っているのかすらもわからない。楽しそうに棒を振っているだけに見える。それでいて、演奏効果を狙っているのか、フォルテで唐突に棒を叩き下ろすから、オーケストラの音は荒れ、タイミングもずれる。
第五楽章の最後で猛烈な加速を狙ったため、会場はそれなりに沸いたが、筆者の心には空虚さのみが残った。

ミュンヘンフィルは、超一級のオーケストラである。この日は、逆境下ではあったが、少しでもよい演奏会にしようという気概がメンバー全員から伝わってきた。
弦楽器の醸し出す絹のような音色に、木管楽器が輝きを添える。腰の据わった中低音の厚みもいかにもドイツ的である。左右非対称のいびつな形で有名なフィルハーモニーホールだが、このホールの鳴らし方を熟知している。加えて、この日は、幸か不幸か、指揮者が有害無益な存在であったため、幻想交響曲を室内楽のように演奏できてしまうほどの高い実力を兼ね備えていることも確認できた。

2011年/2012年シーズンには、マゼールやメータといった実力派のスター指揮者が続々登場する。バイエルン州立歌劇場とセットで、今一度、週末に訪問することにしたい。

なお、この日の食事は、開演前に、ガスタイク内のGASTでパスタとビールを、また、終演後に、新市庁舎の地下にあるラーツケラーで、牛肉のビール煮とビールを。量が多く、味は普通。もっと美味しいソーセージとビールがあるはずだと思いながら、ホテルに引き上げる。


(公演情報)

Donnerstag, 28. April 2011, 20:00 Uhr

Wolfgang Amadeus Mozart
Konzert für Klavier und Orchester
d-Moll KV 466
Hector Berlioz
"Symphonie fantastique" op. 14

Nikolaj Znaider, Dirigent
Piotr Anderszewski, Klavier
[2011/04/30 22:59] | 海外視聴記(ミュンヘン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
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