ましましの音楽日記
G.ヴェルディの作品をこよなく愛するオペラ愛好家による音楽日記です。筆者が鑑賞した海外でのオペラやコンサートの模様や、筆者自身が日頃行っている音楽活動などについて、不定期に綴っていきます。
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ハンブルク・ケルン行き(11年9月)③―ヤング指揮ハンブルクフィル
9月25日午前10時半、ホテルを出発し、ライスハレ・ムジークハレへ。

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この日は、ハンブルク・フィル(ハンブルク州立歌劇場管弦楽団)による演奏会。バルトーク「管弦楽のための協奏曲」とブラームスのピアノ協奏曲第2番を組み合わせたプログラムだ。

この日の座席は、1.Rang rechts Loge 7の1列目。日本風に言えば、2階バルコニー席の中央付近。ネオバロック様式の建物で、響きはややデッドだが、このタイプのホールらしく、響きに艶がある。音の分離もよく、なかなか良いホールだ。

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さて、プログラムの前半は、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」。

第一楽章の序奏部は、楽器が重なるにつれて、響きが練り込まれていく。ホールの響きとも相まって、舞台上からは幅の広いベールが浮かび上がってきた。昨日の悪い印象は、この時点で払拭された。主部は、民謡のリズム感を重視した躍動感のある組立てで、重くなりすぎず、聴きやすい。そういえば、バルトークは民族音楽の研究をライフワークにしていたのであった。なお、展開部の最後に登場する金管楽器によるカノンは、セクション間で若干の時差が生ずるなど、やや危なっかしかった。

第二楽章も、しなやかなリズム感や躍動感が感じられる展開。途中に何度か顔を出す低弦による数小節間の合いの手が異様に怖い。中間部の金管楽器による荘厳なコラールでは、小太鼓との対比が見事にはまり、長いフレーズ感が立体的に描かれていた。

第三楽章の冒頭、木管楽器からは、それなりに色彩感が出ていたが、奏者達が譜面にかぶりつきすぎていて、柔軟さに欠けた感じもした。ホールの響きに助けられたのかもしれない。第一楽章の序奏の主題が再帰したあたりから登場する金管楽器の叩きつけるような打ち込みが攻撃的で、雑な印象を受けた。

第四楽章は、ヴィオラに始まる第二主題がとても美しく、印象的であった。しかし、ショスタコーヴィチの交響曲第7番からの引用や、トロンボーンによるグリッサンドなどは、小奇麗にまとめすぎていて、面白みがなかった。

第五楽章は、一気に駆け抜けるアメリカ車のようなで、現代風の若いセンスが前面に出たアプローチ。ノリの良さと派手さという点で、盛り上がることは盛り上がるが、やや安易なようにも思われた。実際、中間部で複雑な対位法が展開される箇所では、勢いだけでは突っ走れないため、音楽的な緊張感が失われかけていた。

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ホールの響きの特徴にもよるのかもしれないが、全体を通じ、中低音域に関しては、華があり、しかも内容の詰まった充実のサウンドが生み出されていたが、高音域に関しては、バラける箇所もあった。また、フレーズの動き出しがもっさりしているため、弦楽器の前プルトと後プルトの間で、運弓に時差が生ずる場面も散見される。まあまあの仕上がりという感じだろうか。シモーネ・ヤングは、総じて綺麗にまとめてはいたが、昨日と同様、彼女の棒からは、強い主張のようなものは感じられず、その点でも不満は残った。

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さて、後半は、独奏にラルス・フォークトを迎えて、ブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏。

フォークトの奏でるピアノは、輪郭のはっきりした太めのタッチで、それ自体は良いのだが、裏拍的な音符まで、同様の弾き方で音を詰め込むので、不器用でもっさりした印象。ピアノがテンポをリードする場面が多い第一楽章や第二楽章において、流れが停滞する場面が散見された。加えて、彼が採った第一楽章におけるテンポの伸縮には、一貫性が感じられず、ブラームスらしい構成美は窺われなかった。ミスタッチも多く、興醒めな瞬間が幾度となく訪れた。

他方、第三楽章からは、音楽の流れはオーケストラが主導するため、だいぶ聴きやすくなった。独奏チェロや木管楽器が奏でるメロディーの背後でオブリガート的に奏でる箇所などでは、力みの取れた柔らかいタッチで、幻想的な響きが醸し出されていた。第四楽章は、落ち着きのあるスタートで、全体の見通しも良かった。

なお、フォークトは、無駄なアクションが多い。演奏中は、あまり動かず、鍵盤を叩いているのに、フレーズを弾き終わった後で、取って付けたように、天を仰いだり、オーケストラの方に視線を送ってみたり、オーケストラの演奏に合わせて激しく踊ってみたりと、演奏とはおよそ関係のないオーバーアクションを繰り返す。音楽的に何か意味があるのであれば、まだよいが、筆者が観察した限り、それらのアクションの数々が音楽の流れに何らかの影響を及ぼしていたとは到底思えなかった。反面教師にすべきである。

オーケストラは、後半になって、途端に音色が変わった。これぞブラームスという素直なサウンド。管楽器も、弦楽器も、伸びやかな歌に溢れている。力みがなく、自然体なのがよい。ブラームスの生誕地を本拠とするだけのことはある。ホルンセクションの充実は、特筆物であった。

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終演は、午後1時5分。フォークトによるアンコールもあったようだが、これはパスしてホールを出る。徒歩10分ほどで、Dammtor駅に到着。13時40分発の国鉄特急IC2329でケルンへ。


(公演情報)

1. Philharmonisches Konzert
Sonntag 25. September 2011 11:00 Uhr

Dirigent / Simone Young
Klavier / Lars Vogt
Orchester / Philharmoniker Hamburg
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[2011/09/30 03:44] | 海外視聴記(ハンブルク) | トラックバック(0) | コメント(0) |
ハンブルク・ケルン行き(11年9月)②―ヤング指揮ハンブルク歌劇場「ドン・ジョヴァンニ」
9月24日朝、シティナイトラインにてダムトーア駅到着後、まずはホテルへ。この日の宿泊は、グランドエルゼハンブルク。さすが5つ星。部屋は静かで快適だし、スタッフの対応もとてもよい。それなりの値段だが、久々によいホテルライフを過ごせた。

午前中は、ハンブルク港遊覧船に乗船して、街の概観を把握。その後、赤レンガの倉庫街や市庁舎を見学し、中央駅前のレストラン、シファーヴェルゼ(Schiffer Boerse)に入る。船内をイメージした内装で、雰囲気がよい。ハンブルクの定番料理であるラプスカウス、ヒラメのソテー、デザートとして、バニラアイスにローデ・グリュッツェを添えたものを頂いた。ラプスカウスに関しては、事前に調査した限りでは、ネガティブなコメントが先行していたような印象だったが、ここのラプスカウスは、なかなか美味。ヒラメのソテーは、ヒラメというよりも、アナゴに近いかもしれないが、悪くはない。ガイドブックに載っていないためか、一目で分かる旅行客は見当たらなかったが、使い勝手を考えると、いわゆる有名店に行ってがっかりするよりも、こういうレストランに行った方が満足度は高い。

ホテルの部屋に入り、しばしホテル内で休息。そして午後6時前にホテルを出て、ハンブルク州立歌劇場へ。

この日の演目は、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」。今月18日がプレミエで、この日は3回目の上演にあたる。

この歌劇場は、音がデッドであるばかりでなく、日本の古い公会堂のような響きがする。この日の筆者の座席で聞く限り、オーケストラ・ピットからの距離はそう遠くはないのに、細部に関しては、ぼけてしまっていてよくわからないし、フォルテの音色は、非常に薄っぺらい。ピット内で響きが溶け合っているようにも見えない。平土間前方でこの状況であるから、階上席に行ったら、ますますもやもやして、よくわからないだろうと感じた。

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序曲は、全体的に精彩を欠く印象であった。アレグロの8分音符と大きな旋律が噛み合わない部分もある。歌劇場オケにとっては、音出しくらいの位置づけに過ぎない序曲など、この程度の仕上がりだろう。この日の演出では、女性の骸骨がドン・ジョヴァンニの最終的な愛人となって墓場に引きずり込むという設定になっていたが、序曲の段階からこの女性の骸骨が舞台上に登場し、冴えない演技をさせられているのが脳裏に刻み込まれる。

第一幕の導入曲である第一曲は、悪くない流れだが、レポレロ役のヴィルヘルム・シュヴィングハマーのオーラが弱い。舞台上では、ドン・。ジョヴァンニがドンナ・アンナと派手にベッドシーンを展開している。騎士長が刺された後のゆっくりした場面は、オーケストラも歌手も響きに深みがなく、停滞気味。第二曲のドンナ・アンナとオッターヴィオの二重唱は、オーケストラは良い流れを生み出していたが、ドンナ・アンナ役のエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーの冴えない歌唱が違和感をもたらす。

第三曲でドンナ・エルヴィーラが登場。その切れのある安定した歌唱と演技に幾ばくか期待が高まる。ドンナ・エルヴィーラは、この作品では、堂々と正論を述べる賢さとドン・ジョヴァンニを諭す愛情を主軸に描かれているが、他方で、ドン・ジョヴァンニの魅力にやられてしまう本能的な一面や、ヒステリックな一面も垣間見られるという複雑な役柄である。今回の演出では、それらがバランス良く表現されていたが、どこにポイントを置いているのかがはっきりしなかったため、逆に散漫な印象を受けた。もっとも、ドンナ・エルヴィーラ役のクリスティーナ・ダミアンは、全幕を通じて、その役柄を見事に描き分けており、訴えるものがあったと感じた。

これに続く第四曲のレポレロのアリアは、レポレロ役のヴィルヘルム・シュヴィングハマーに癖がないので、全く面白味がない。第五曲冒頭のツェルリーナも、切れがなく、テンポに乗れていない。この曲は、短いがゆえに、冒頭で崩れると、グダグダなまま終わってしまう。なお、この場面から、舞台上の中吊り幕には、ずーっとプロレスのシーンが映し出されていて、不可解さは満載であった。加えて、マゼットとツェルリーナの間には、幼い子供がいて、いわゆるデキ婚を示唆する設定であったが、その理由も不明。

第七曲のドン・ジョヴァンニとツェルリーナの二重唱も、演技が過剰な割には、いずれの声もその雰囲気に相応しい感じには溶けていなかったため、不釣合いな印象に終わった。第八曲のドンナ・エルヴィーラのアリア、そして第九曲の四重唱で、少し引き締まった印象になるも、第十曲のドンナ・アンナのレチタティーボとアリアで、また緊張感が緩む。なお、第十曲aのドン・オッターヴィオのアリアは、演奏されなかった。

有名な第十一曲、シャンパンの歌は、安全運転で、しかもドン・ジョヴァンニ役のヴォルフガング・コッホの言葉が前に飛んでこないので、魅力の大半失われていた。

第十二曲、ツェルリーナのアリアも、ツェルリーナの見た目が怖すぎて、しっくりこない。ツェルリーナ役のマリア・マルキナは、声質が硬めで、しかも身に着けていた衣装が「ナブッコ」におけるアビガイッレ役のような戦闘モードであったため、「ぶってよ、マゼット」に従って本当に叩こうものなら、すかさず打ちのめされそうな勢い。ツェルリーナ役のマリア・マルキナの声色の変化も乏しかった。

第一幕のフィナーレである第十三曲は、原色系の巨大な人形に囲まれた遊園地みたいなセットで、骸骨がくにゃくにゃ踊っているという設定。この時点で、舞台上の緊張感の大半は失われていた。

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第二幕に入り、ドン・ジョヴァンニ役のヴォルフガング・コッホの歌唱に伸びが出てきた。もっとも、イタリアンな自由さではなく、割と生真面目に歌うので、実際のところは若干表情が柔らかくなったという程度か。なお、ヴォルフガング・コッホに関しては、今年のザルツブルク音楽祭「影のない女」、ケルンでのウェスト・イースタン・ディヴァン管による第九、そして今回のドン・ジョヴァンニと、たった2ヶ月弱の間に三度も実演に接する機会があったが、この日の歌唱は「歌」として成立していたと感じた。

第十九曲の六重唱は、手堅い印象。ただ、レポレロ役のヴィルヘルム・シュヴィングハマーの線が弱く、またドンナ・アンナ役のエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーの歌唱がもっさりしているので、ドラマとしての緊張感や迫力は生まれてこない。第二十一曲のドン・オッターヴィオのアリアに大きなブラボーが飛んでいたが、それほどでもなかった気がした。

第二十一曲b、音楽的には白眉であるドンナ・エルヴィーラのレチタティーヴォとアリアは、この日はカット。筆者のお気に入りのナンバーであり、この日はドンナ・エルヴィーラ役のクリスティーナ・ダミアンが非常に切れのある歌唱を魅せていただけに、がっかり度は相当高い。第二十三曲、ドンナ・アンナのアリアも、ドンナ・アンナ役のエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーのもっさりした歌回しと音程の不安定さゆえに、眉間にしわがよる箇所が幾度か現れる。

それでも、第二幕のフィナーレである第二十四曲が始まってしまえば、音楽の勢いで、それなりに進行してしまうのがモーツァルトの凄いところ。しかし、騎士長登場の場面は、騎士長が舞台前方に吊るされた紗幕の後ろにいて見えず、代わりに女性の骸骨が登場してドン・ジョヴァンニを地獄に引きずり込むという設定ゆえ、演出的に迫力に欠ける。音楽的にも、オーケストラが火を噴いてもおかしくない場面なのに、ピット内からは熱気はあまり伝わって来ず、つまらない。ドン・ジョヴァンニが地獄に行った後も、3組のカップルがベッドシーンの延長をグダグダと演じているので、緊張感に欠ける。ドンナ・エルヴィーラ、ドンナ・アンナ、ツェルリーナの音楽的なキャラクターが悪い意味で違いすぎていて、最後のアンサンブルも滲んだ印象のまま終わった。

演出に関しては、女性の骸骨がドン・ジョヴァンニの最終的な愛人になるというコンセプト自体は良いと思うが、たくさんの骸骨によるくにゃくにゃダンスは不要であった。また、エロチックで生々しいベッドシーンを執拗に強調していたのかも不可解極まりない。プロレスの要素も不要であるし、セットや衣装において、古臭いものと現代的なものが混在しすぎていて、コンセプトを歪めていたように感じた。
結局、この演出家は、ドン・ジョヴァンニという人物をどのように捉えていたのだろうか。ドン・ジョヴァンニの好色ぶりを過剰なまでに強調していたが、モーツァルトのセンスとはマッチしていなかったような気がした。
なお、この日は、舞台の中央付近の全面にスクリーン状の巨大な幕を下ろした上で、そのスクリーンに対してCGを投影するというアプローチが採られていたが、CGが単なる写真の投影というレベルを超えて、非常に精巧に作られていたため、陳腐さを感じさせず、むしろ臨場感に溢れる仕上がりになっていた点が、個人的には勉強になった。

シモーネ・ヤング指揮によるハンブルク州立歌劇場管弦楽団による演奏は、全体的にサラサラと流れる速めの進行であり、バレンボイム譲りの長めのフレーズ感に加え、女性らしい丁寧かつしなやかなフレーズの収め方など、部分的には、なかなか良いサウンドを引き出してはいた。しかし、残念ながら、彼女の棒からは、「ドン・ジョヴァンニ」という作品と対峙して、音楽家として何を感じたのか、といったものは、伝わってこなかった。響きが健康的で、毒がない上に、オーケストラが伴奏役に終始し過ぎていて、面白みがない。テンポを速めることで大きなフレーズ感を演出するという手法に頼りすぎている感もある。また、中途半端にノンビブラート奏法を多用するため、音楽の方向性も散漫になるし、持久力に欠ける場面も多かった。

オーケストラにも問題は多かった。流れが生まれてくると、平均点以上の演奏はするが、曲の冒頭やレチタティーヴォの合いの手において、音程や響きの方向性が揃わない場面が多すぎる。オーケストラとしての和声感も定まっておらず、随所で響きが滲む。また、これはホールの問題ともいえるが、金管楽器の響きが安っぽいため、フォルテにおけるモーツァルトの音楽の持つ強烈なインパクトが感じられなかった。響きの鮮烈さが感じられなかったのは言わずもがな。伴奏的なフレーズや音型の収め方に関しても、シモーネ・ヤングの手の行き届かない箇所で、雑な処理が散見される。良い部分がそれなりにあったとしても、詰めが甘い部分が散見されると、途端に観客の気持ちが離れてしまう、という怖さを目の当たりにした。今シーズンのプレミエで、この程度の演奏だとすると、平土間席であったことを割り引いたとしても、トップクラスという評価を下すことはできない。たまたま運や相性がよくなかっただけなのだろうか。世間の評判が極めて高いがゆえに、非常に複雑な心境に陥る。いずれにせよ、音楽的な仕上がりという意味では、筆者が今年4月にウィーンで観たメスト指揮による上演とは、天と地ほどの差があった。

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カーテンコールもそれほど盛り上がらず、ブラボーの数も多くはない。
終演は午後10時10分。そのままホテルに戻り、ホテル内のレストランで簡単に夕食を済ませ、就寝。

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(公演情報)

Don Giovanni
Wolfgang Amadeus Mozart

Samstag 24. September 2011 19:00 Uhr

Musikalische Leitung / Simone Young
Regie / Doris Dörrie

Don Giovanni / Wolfgang Koch
Donna Anna / Elza van den Heever
Don Ottavio / Dovlet Nurgeldiyev
Il Commendatore / Alexander Tsymbalyuk
Donna Elvira / Cristina Damian
Leporello / Wilhelm Schwinghammer
Masetto / Jongmin Park
Zerlina / Maria Markina
Butoh-Tänzer / Tadashi Endo
Orchester / Philharmoniker Hamburg
[2011/09/30 03:42] | 海外視聴記(ハンブルク) | トラックバック(0) | コメント(0) |
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