ましましの音楽日記
G.ヴェルディの作品をこよなく愛するオペラ愛好家による音楽日記です。筆者が鑑賞した海外でのオペラやコンサートの模様や、筆者自身が日頃行っている音楽活動などについて、不定期に綴っていきます。
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カンブルラン指揮読響―第7回メトロポリタンシリーズ「マラ4」
4月19日午後2時前、東京芸術劇場コンサートホールへ。シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団による第7回読響メトロポリタン・シリーズ。シェーンベルク「弦楽のためのワルツ」、リストのピアノ協奏曲第1番、マーラーの交響曲第4番という、やや珍しい組み合わせの各作品が採り上げられた。会場の入りは、7、8割程度か。

今回は、仕事の都合により、前々日に開催された第536回定期演奏会からの振り替えである。割り当てられた席は、1階RBブロックC列。1階平土間の11列目との並びで、左右の壁沿いに走る3階バルコニー席直下の壁沿いであるが、ステージまでの距離は思いのほか近い。音響的には、ステージ最前方で奏するピアノや独唱の音が直接届いてこないもどかしさ、ステージ上手奥の平台上に並ぶトロンボーンの直接音がやや気になるという点を除くと、臨場感の高さ、弦楽器の響きのまとまりの良さ、頭一つ抜けて浮かび上がる管楽器の明快さなど、この会場特有の響きの良さを十分に体感できるポジションといえる。

この日の演奏会は、一見すると、何の脈絡もないプログラムのように映るが、音楽的な共通項を多く含む秀逸な選曲であった。

前半一曲目は、シェーンベルク「弦楽のためのワルツ」は、12音技法等になる前の初期の作品で、カンブルランによれば、ヨハン・シュトラウス、シューベルト、シューマン、ベルリオーズ、ウェーバー、チャイコフスキーらの要素が散りばめられているとのこと。演奏時間約16分の全10曲からなる短い作品ながら、様々な表情がコンパクトに収められており、示唆と輝きに富んでいる。そして、ここでスナップ的に切り取られたニュアンスの数々は、実は、マーラーの交響曲第4番に描かれる世界観、すなわち、天上の世界と死の舞踏との対比というこの日のテーマへのイントロダクションでもあった。

さて演奏の方だが、この日の読響の弦楽器セクションは、ゲストコンサートマスターのクリスティアン・オスタータークの絶妙なリードにより、流れのよいリズム感で、バランスよく瑞々しく、全10曲をまとめあげていた。また、細部の処理も的確で、料理で言えば味わいの複雑さを醸し出すようなエッセンスの数々に関しても、技術的には相当高度と思われるも、適度に磨かれ、演奏の奥行きを増していた。会場の個性も加わり、素朴さのなかに温もりも感じさせる響きが印象的であった。

前半二曲目は、ニコライ・デミジェンコを独奏に迎えて、リストのピアノ協奏曲第一番。デミジェンコによる筋の通った懐の深い演奏が素晴らしかった。様式観が明快で、音楽全体に一体感がある。筆者の座席の都合上、スケールの大きなピアノの響きに包まれる機会を逸したのは、実に残念ではあったが、斜め横から眺めるだけでも、その質の高さは群を抜いていた。鍵盤楽器に関しては残響過多の硬質な響きとなるホール特性にもかかわらず、音の一つひとつが混濁せず、粒立ちが明快であったことも特筆に値する。

なお、カンブルランは、この作品の交響詩的な世界観に関心を示していたようで、あたかも一つの物語のように、作品全体を構成していたようだ。そしてこの方向性は、マーラーの交響曲第4番にも受け継がれる。曲後半で活躍するトライアングルは、マーラーの交響曲第4番の死の舞踏にも相通ずるものがある。オーケストラに関しては、弦楽器セクションがドイツ的な分厚い骨太なサウンドで好演。対して、木管楽器の合いの手はどこか散漫で、やや思慮に欠けていたのが惜しい。注目のトライアングルは、独奏や弦楽器の精度と比べると、きめ細かさを欠いており、全体の中でやや浮いてしまっていたのが残念。ともあれ、いわゆる中プロの演奏としては、悪くはない仕上がりであった。

アンコールは、メトネルの「おとぎばなし」から。泉から湧き出すようなピュアな響きの拡がりに心を打たれた。出来れば、木の香りのするホールでその余韻を楽しみたかった。

休憩を挟んで、後半はマーラーの交響曲第4番。「大いなる喜びへの讃歌」という副題を伴う。この日の演奏では、誠実さと劇性の交錯、そして救済へ、という大きなシナリオが準備されており、個人的にも、第三楽章後半の壮大なファンファーレや、第四楽章の天上の世界では、図らずも涙が出てしまうほどに感銘を受けた。外面的効果の強調や濃厚さといったスタイルとは隔絶し、話題性のあるネタも周到に排除されているため、物足りないと感じるファンも少なくないと思われるが、その内容の深さと明晰さゆえ、筆者好みの演奏である。

第一楽章の提示部は、シェーンベルクのワルツに通ずる端正な音色で、古典的な様式美に富む。スマートな運びだが、息継ぎのタイミングでは十分な余裕をもち、結果として、フレージングの方向性が明快に浮かび上がっていたのが素晴らしかった。展開部に入ると、不穏な空気の漂うなか、ロマンチックな夜の森に、切れ味の鋭い痛烈な叫びが押し寄せ、個々のポーションが対立軸を先鋭化させる。クライマックスでは、いつの間にかそれらが融合し、大きなうねりを伴って宇宙的な拡がりをみせた。この展開の鮮やかさは、圧巻であった。唐突に開始された再現部は、この作品の最後に展開する浄化の世界を先取りしたかのような質素なスタイルで、第二楽章以降への期待を膨らませた。これだけ多彩なニュアンスをこめながら、またドラマ性を追求しながら、サウンド的には常に見通しがよく、全てが整然と整理され、しかも自然体で表現されていたのは、カンブルランと読響の充実ぶりの証左といえるであろう。

第二楽章は、ゲストコンサートマスターのオスタータークの妙技が全開。これだけ板についていると、聴き手としても嬉しくなってしまう。他方で、非現実の世界、夢の世界、天国の世界を表象する純粋な響きの数々も、透明感が高く、また陽だまりのような温かさを感じさせ、音楽の奥深さを印象付けていた。カンブルランのバランス感覚は、凄すぎる。

第三楽章第一主題における澄み切った美しさは、息が止まりそうになるほど。春の到来を間近に控えた夜明け前のような期待感も感じられた。第三楽章に入ってからは、演奏が良い意味でカンブルランの指揮から解き放たれ、音楽自体として歩みを始めたようにも感じられた。そして、後半のクライマックスでは、オペラ的な高揚感に包まれ、宗教曲における讃美歌にも通ずるような大いなる喜びが壮大に展開。何か物凄い力に突き動かされるような内面的な衝動が走った。

エピローグ的な第四楽章は、言葉の一つひとつが心に語りかける誠実な演奏。特に前半では、時折挿入される美しさに陶酔することなく、むしろシニカルな部分に重点を置いた処理がなされ、独唱を務めたローラ・エイキンの表現力が存分に活かされる。しかし、「音楽も地上のそれとは比較にならぬ素晴らしさ(Kein Musik ist ja nicht auf Erden. Die unsrer verglichen kann werden,)」というフレーズに始まる最終節に入ると、演奏は穏やかさに包まれ、天上の無垢で清らかな世界が静かに拡がった。「天使たちの歌声に心は励まされすべてが喜びに目覚める(Die englischen Stimmen Ermuntern die Sinnen, Daß alles fur Freuden erwacht. )」という最終フレーズは、余韻の中で筆者の心にいつまでもリフレインされた。

これほど内容の濃い演奏会は、久しぶりであった。受け手の心にさりげなく寄り添って微笑みを与えられる芸術家は、本物だと思う。世の喧騒で日々闘っていると、大切なことを忘れてしまいがちだ。プログラム構成力の秀逸さはもとより、社会に対して芸術家として誠実に語り掛け続けるマエストロの人柄が滲み出る意義深い演奏であったといえる。前々日のサントリー公演に関しては、独唱や木管楽器の不調が噂されていたが、この日の演奏を聴く限り、そのような懸念は全くの杞憂であった。もっとも、客層的には、東京芸術劇場のマチネ公演ゆえ、若干見劣りしてしまう。演奏中に物を落下させる輩が少なからず混じっていたのが残念であった。


(公演情報)

第7回読響メトロポリタン・シリーズ
2014年4月19日(土) 14:00開演

会場:東京芸術劇場

指揮=シルヴァン・カンブルラン
ピアノ=ニコライ・デミジェンコ
ソプラノ=ローラ・エイキン

シェーンベルク:弦楽のためのワルツ
リスト:ピアノ協奏曲第1番 変ホ長調
マーラー:交響曲第4番 ト長調「大いなる喜びへの賛歌」
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[2014/04/20 11:13] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
下野指揮読響―第535回定期演奏会「ドヴォルザーク/レクイエム」
3月12日午後7時前、サントリーホールへ。下野竜也指揮読売日本交響楽団による第535回定期演奏会。ドヴォルザークのレクイエムが採り上げられた。独唱陣は中嶋彰子、藤村美穂子、吉田浩之、久保田真澄の各氏が務め、田中信昭らの指導を受けた国立音楽大学合唱団が共演。コンサートマスターには、長原幸太がゲスト出演した。なお、出演を予定していたバスの妻屋秀和は、体調不良により急遽降板した。

筆者の座席は、指定席であるRB9列目。入場者数は7、8割程度か。年度末の繁忙期を迎え、欠席者が割と多かったようだ。業務の都合で、筆者自身も危うく欠席になるところであった。

さて、この日の公演で最も光っていたのは、国立音楽大学合唱団の健闘ぶりである。ポリフォニックな和声の遷移が鮮やかに浮かび上がり、純度の高いハーモニーを存分に愉しむことができた。声に若さが残る点や、ところどころ下支えが不足する点、また音量的な拡がりに不十分さが残る点など、理想を言い出せばきりがないが、作品と真剣に向かい合った彼らの素直な気持ちがそのまま音として伝わってきており、日本で聴く合唱の演奏の中でも高く評価されるべき仕上がりであったといえる。

他方、全体としての仕上がりに関しては、前評判の高さに照らすと、必ずしも十分なものではなかったように感じた。

下野のタクトは、全体的に綺麗に磨き上げられたサウンドを志向していた。各楽器に対する表情付けも念入りに行われており、よく整理されていた。しかし、演奏全体としてみると、この作品の捉え方をめぐって、ステージ上で十分に認識が統一されていなかったようにも見受けられる。各奏者はそれぞれの想いを抱きながら演奏していたと予想されるが、そのベクトルが一つに束ねきれていなかったようにも感じられた。表向きはまとまっているが、どこか物足りない。

また、オーケストラに関しては、主に響きの点で課題が残る仕上がりであったことも指摘せざるを得ない。今回演奏されたドヴォルザークのレクイエムは、ポリフォニックな響きの美しさが際立つ作品である。そのため、オーケストラには、純度の高いハーモニーの構築が求められるが、この日は、特に木管セクションを中心に、音程が微妙に乱れ、和声が明快に定まらず、終始滲んだ表情となってしまった。金管セクションも不安定さを露呈し、全体の響きの中に溶け込むようなニュアンスは見出せなかった。他方、弦楽器セクションは、細めの線で綺麗にまとまり、繊細さを表現できていたが、どこかよそよそしさが漂い、いつものような一体感が薄かったようにも感じた。

なお、第二部に入ると、後半で盛り上がりを見せる曲が複数登場するが、第九曲「オッフェルトリウム」のフーガは、音楽的に充実した高揚感となったものの、その後の第十曲「生贄と賛美の祈りを」、第十一曲「サンクトゥス」は、後半が勢いに任せた盛り上げとなってしまい、曲ごとの変化があまり浮かび上がらなかった。

独唱陣に関しては、直前にメンバー変更が生じたことを踏まえると、まずまずの仕上がりであったのかもしれない。急遽代役で出演することとなった久保田は、演奏機会の少ないこの作品でありながら、全体の流れを損なうことなく、卒なく無難にまとめられていた。吉田は、伸びやかな美声でアンサンブルを牽引し、特に華のある歌唱部分で好演。日本を代表するメゾ・ソプラノ歌手の藤村は、さすがの貫録と抜群の安定感で、芯のあるブレのない歌唱を示すも、彼女の実力からすると、可もなく不可もなくという仕上がりであろうか。中嶋は、ドラマチックな歌唱で力強さを表現するも、作品の性質や下野が狙った方向性に照らすと、多少の違和感があり、どちらかというと、藤村のように、確実に的に当ててくるようなスタンスで臨んだ方が全体の流れにはマッチしていたのではないかと感じた。

このように、凝縮の度合いがいま一歩のまま演奏は進行したが、最終の第十三曲「アニュス・デイ」に関しては、下野の作品構成力は光っており、感慨深さを多少は醸し出すことに成功していた。もっとも、演奏終了後に30秒もの静寂を演出するほどの仕上がりであったとは思えず、やや芝居がかっていたのではないかと個人的には感じた。東日本大震災から3年という節目の時期ゆえ、そうした想いを籠めたかったという気持ちも理解できなくはないが。


(公演情報)

第535回定期演奏会
2014年3月12日(水) 19:00開演
会場:サントリーホール

指揮=下野竜也
ソプラノ=中嶋彰子
メゾ・ソプラノ=藤村実穂子
テナー=吉田浩之
バス=久保田真澄
合唱=国立音楽大学合唱団

ドヴォルザーク:レクイエム 作品89
[2014/03/16 18:54] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグフィル―来日公演②
2月1日朝、ANA245便にて福岡へ。一幸舎博多本店と長浜ナンバーワン祇園店で、ラーメンをハシゴする。個人的には、綺麗に仕上がった前者よりも、基本に忠実な後者の方が好みであった。

午後2時すぎ、アクロス福岡へ。ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団による日本公演の千秋楽。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と交響曲第4番が採り上げられた。サントリーホールでの公演は、仕事の都合で行けなくなってしまったので、そのリベンジである。

会場の入りは、8割程度。この日に関しては、割と理解のある聴衆が集まったようで、演奏中のマナー違反も少なかった。ただ、東京の演奏会と比べると、客席の集中力の持続が薄かったのが残念だ。

筆者の座席は、2階バルコニーR1列6番。ステージに最も近いブロックである。上手奥に並ぶ金管セクションの雄姿を拝めないというデメリットを除くと、音の分離もよく、このホールの中で最も音響の良い場所の一つといえよう。筆者の周囲は本気モードの聴衆ばかりであり、ピリピリした空気を共有できたのが良かった。

福岡シンフォニーホールは、今回が初めてであるが、残響の長さの受容の仕方で大きく評価が分かれるホールであると感じた。よく計算された設計ではあるが、例えば、ウィーン楽友協会のムジークフェライン大ホールとは異なり、音の持続が人工的で、響きの減衰が少ない。そのため、サンクトペテルブルグ・フィルのようなパワーのあるオーケストラが演奏をすると、音が飽和し、混濁してしまうという問題が生ずる。また、鍵盤楽器の硬質な響きも、個人的には違和感を覚えた。最高音域で不思議な耳鳴りを微かに感じたのは、気のせいであろうか。

さて、プログラム前半は、ピアノ協奏曲第1番。エリソ・ヴィルサラーゼが独奏を務めた。

第一楽章冒頭では、オーケストラの体温が低く、やる気が全く感じられなかったが、展開部に入るあたりから、徐々にエンジンがかかり始める。独奏とオーケストラの掛け合いは、協奏曲の醍醐味。肉厚骨太な響きで展開される対話は、なかなか聴き応えがあった。また、大河のように雄大に流れる旋律と、その内側で渦を巻く水流との対比が、作品の構造を明晰に示していた。力強いタッチで押し進めるヴィルサラーゼの独奏も、筋が通っていた。もっとも、彼女の場合、アンコールで演奏したシューマンの作品の方が合っているように感じた。

第二楽章になって、ようやくこのホールの音響に身体が馴染んだようだ。色彩感が豊かで、心に癒しがもたらされる。彼らならではの美しさに満ちた緩徐楽章であった。

第三楽章は、ヴィルサラーゼが随所で仕掛けるが、残響が長いこのホールでは、舞台奥に並ぶ管楽器を中心に、レスポンスの遅れが露呈してしまう。スリリングさは満載であったが、崩壊の危機も散見され、手に汗を握る演奏であった。

今回の来日期間中、健康が不安視されていたテミルカーノフも、この日は、朗らかな表情で、元気いっぱい。オペラ指揮者としての掌握力が光っていた。ホールの響きに慣れていないオーケストラの内部では、色々と乱れが生じるが、ここぞという箇所で、わずかな合図とアイコンタクトにより、音楽の流れを阻害せずに、アンサンブルを立て直す技は、神の手といっても過言ではない。オーケストラ全体のテンションの高め方も秀逸。マエストロの本気を観たように思う。

休憩を挟み、プログラム後半は、交響曲第4番。これは、凄まじい演奏であった。

第一楽章の序奏部は、異様に重い。運命の動機が呻き声のように突き刺さる。たった数十小節の間に、聴き手の意識は深遠な世界へと連れて行かれた。和音の一つひとつから、ロシアの原野が眼の前に拡がるのだ。

主部に入ると、一転して快速テンポで進行する。しかし、忙しなさは全く感じさせない。長い旋律を一息で運ぶフレージングは、起伏に富んでいて、ダイナミック。8分の9拍子ともベストマッチである。内側からあふれ出る旋律の交錯と、永続的に回転する拍子感、それらを支配する淡い陰影、流れを断ち切る運命の動機。この作品の神髄を突く素晴らしさだ。

提示部では冷静さを保っていたが、展開部に入ると、演奏のテンションは一気に高まり、畳み掛けるように凄みを増した。火山帯の噴火のように、至る所からモチーフが噴出。完璧なる足し算の世界だが、足腰がふらつくことなく、足せば足すだけボリュームが増してゆくこのオーケストラのポテンシャルの大きさには驚愕。再現部直前のクライマックスは、聴き手の心を完全に打ちのめす壮絶なドラマであった。

再現部に入っても、音楽の拡がりはとどまるところを知らない。最弱音で奏される第二主題の素朴な美しさは、あまりに自然であるがゆえに、逆に恐ろしい。また、第二主題に覆いかぶさるように反復される第一主題も、この作品の奥深さを語るには十分な存在感を示していた。なお、抑制的なコーダは、第二楽章以降への期待感を高める絶妙な演出であった。コーダを煽ると、第一楽章で完結してしまうので、作品の流れにそぐわないのである。

第一楽章が終わった時点で、周囲からはため息が漏れる。期待スイッチ全開の中で迎えた第二楽章の味わい深さは、もう二度とお目にかかれないのではないかと疑わずにはいられない水準にあった。わずかなアゴーギクとディナーミクは、ロシア語のイントネーションに由来すると思われる。韻を踏んだ言い回しと和声感は、母国語とする者にしか成し得ないであろう。少なくとも記譜上は、読み取ることが不可能。とりわけ、オーボエ独奏のカンタービレには魂が宿っており、これを受け継ぐ弦楽器セクションも、哀愁に満ちた静かな語り口で、俗世とは決別する。対する中間部は、品格を保ちつつ、壮大なスケールで展開。湧き上がる旋律美は、時空を超える拡がりをみせた。

第三楽章は、弦楽器のピッツィカートが凄い。空間を最大限に活かしたディナーミクで、タテの奥行きを脳裏に刻む。合いの手を務める木管・金管楽器も、エッジが効いており、面白さが倍増。生命力にあふれるロシアンダンスである。

満を持して到達した第四楽章は、笑ってしまうくらいに驚異的なスピードだ。一糸乱れぬアンサンブルは、ムラヴィンスキー時代を彷彿とさせる。このテンポでも音が痩せないのは、彼らの凄さの一つといえようか。歓びに満ちた第一主題、自信に満ちて突き進む第二主題、絶大な存在感で鳴り響く運命のファンファーレ、終盤にみられた怒涛の追い込み。全てが結実した万感のフィナーレであった。

ホール内は、割れんばかりの拍手に包まれる。この熱狂ぶりは、本物であった。アンコールは二曲。ニュアンスに富んだ「愛のあいさつ」は、終盤のクライマックスに姿を見せた悪魔的な表情とともに、内容の濃い印象的な演奏。「プルチネッラ」から「ヴィーヴォ」では、パンチの効いた愉快な表情が愉しめた。

終演後は、久しぶりに、中洲の「寿司岩正」と「Bar Vespa」へ。短時間の滞在ながら、十分な内容の酒食に満たされる。午後8時すぎに中洲を出て、慌ただしく空港に向かい、ANA272便で帰京。充実の日帰り遠足であった。


(公演情報)

2014年2月1日(土)15:00開演
会場:福岡シンフォニーホール

指揮:ユーリ・テミルカーノフ
ピアノ:エリソ・ヴィルサラーゼ

サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲 第1番
(アンコール:シューマン:森の情景 op.82より 予言鳥)
チャイコフスキー:交響曲 第4番 ヘ短調 op.36
(アンコール:エルガー:愛のあいさつ op.12、ストラヴィンスキー:プルチネルラ組曲より ヴィーヴォ)
[2014/02/02 10:44] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグフィル―来日公演①
1月26日午後1時半すぎ、みなとみらいホールへ。ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団による来日公演。この日は、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とムソルグスキーの「展覧会の絵」という名曲プログラムである。日曜日のマチネということもあり、客席はほぼ満席の盛況ぶりであった。

筆者の座席は、1階席7列目中央下手より。みなとみらいホールは、1階席でも、4列目から傾斜がついているので、音が頭上を通過するようなことが起こらないのがよい。7列目だと、舞台上の奏者と同じ目線となるため、ヴァイオリン協奏曲に照準を合わせた今回のポジショニングは、正解であった。

プログラム前半は、庄司紗矢香を独奏に迎え、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。前評判は高かったが、その期待をさらに上回り、内容の深さとスリリングさが相まった大変刺激的な名演であった。

この作品に関しては、筆者自身としても、学生時代に独奏パートを勉強し、また、市民オーケストラではコンサートマスターとして伴奏も担当するなど、様々な場面で、繰り返し接してきたが、正直なところ、作品に魅了されたことはあまりなかった。しかし、この日の演奏に触れたことで、ようやく作品の全容が見えるとともに、その面白さが理解できるようになったようだ。

庄司の演奏は、チャイコフスキーの音楽とストイックに向き合う正攻法によるアプローチ。ヴィルトーゾ的な華やかさとは正反対の世界をひたむきに探究する。その卓越した作品構成力には、今回も感銘を受けた。特に印象的であったのは、第一楽章のカデンツァ後のフルートへの橋渡し。木漏れ日の温かさが春の歓びを表現していた。第二楽章に脈々と流れる民謡調の深遠な世界や、第三楽章における切れ味の明快さや弾むような推進力も、庄司らしさが全開で、素晴らしかった。

加えて、この日の演奏で顕著にみられたのは、ロシア風の演奏スタイルとの完璧な共鳴である。旋律の端々に表れるタメとコクが、ロシア風のイントネーションと合致し、オーケストラが奏でる伴奏との間で、見事なコラボレーションを生み出す。これこそがチャイコフスキーともいうべき、厚みと温もりのあるオーケストラの余韻を、完全に味方につけ、表現の幅を倍増させていた。今回の演奏に向け、ロシアの語法やイントネーションを徹底的に研究し、自らの音楽表現にまで高めた成果が、如何なく発揮されていたといえる。

技巧を見せびらかすような場面が皆無であるため、一見すると地味であり、抑制された演奏にも映るが、巨人たちに囲まれた少女が舞台上で発するエネルギーは物凄い。このオーケストラの場合、内在する破壊力は半端なく、ちょっと仕掛けると、猛獣のように襲い掛かってくるが、そんな彼らと対等に渡り歩き、丁々発止の駆け引きを展開し、最後には力強い絆を結んでしまう庄司のセンスと度胸には、毎度のことながら、驚かされる。

ちなみに、この日の名演が生まれた背景には、指揮者、独奏者、オーケストラの間の抜群の信頼関係があったことを忘れてはならない。指揮台から保護者のような眼差しで見守るテミルカーノフ、ちょっと仕掛けてははにかむ庄司、そんな様子を温かく受容するオーケストラ。こうした真剣勝負の中に見え隠れした微笑ましさは、忙しい現代人の多くが忘れてしまっているのではなかろうか。カーテンコール時に、オーケストラの年配世代を中心に、鼻の下が伸びきっていたのが今でも目に焼き付いている。

プログラム後半は、ムソルグスキー(ラヴェル編曲)の「展覧会の絵」。ロシアのパワーをこれでもかと見せつけられた圧倒的な演奏であった。筆者は、この作品も過去に何回も耳にしている(筆者自身もオーケストラで弾いたことがある)が、ここまでの衝撃を受けた記憶はない。

この日のテミルカーノフの指揮は、読響に客演するときとは比べ物にならないほど、自由であり、スケールが大きく、威厳があり、ロシア魂に満ちたものであった。オペラ指揮者としての造詣も深いテミルカーノフのセンスは、この作品のような標題音楽では、より一層引き立つ。途中に挿入される各プロムナードの描き分けも含め、全体のヴィジョンが明快であり、展覧会をダイジェストで駆け抜けたような充実感があった。また、曲ごとにみても、品格とバランスを保ちつつ、内容的には、強い意志の宿る直球勝負の演奏で、ニュアンスにも富んでいた。

中でも、第一曲「グノームス」では、死にたくなるような重い音色と、断末魔の叫びをも切り捨てるような厳しさが突出していた。第二曲「古城」では、弦楽器が演出する雄大な空間の中に、物悲しい歌が鳴り響く。第四曲「ビドロ」では、低弦の奏でる牛車の軋みが、虐げられた民衆の苦悩を物語るようで、生々しい。そして、度肝を抜かされたのは、第十曲「キエフの大門」。地鳴りのする爆発的な金管打楽器セクションと、賛美歌風の木管セクションとの対比が見物であった。あれだけのダイナミクスレンジを演出しながら、音色が濁らず澱まないのは、驚異的である。最後までテンポを緩めることなく、まっすぐ豪快に鳴り響いたフィナーレは、胸がすくほどに見通しが良かった。

プログラム全体を通じて、彼らの演奏から滲み出ていたのは、音楽に賭ける意気込みの高さと絶対の自信である。アンサンブルに関しては、タテの線を合わせることには無関心で、ヨコの流れで互いに協調し、合流するというスタンス。コンクール的には、これでは落第点が付くであろう。しかし、こうしたテミルカーノフ時代に育まれてきた様式は、ロシアの伝統と相まって、実に男らしく、雄弁な音楽表現へと結びついた。ロシア民謡に由来する大らかで雄大なカンタービレ、情景を描き出す抜群の表現力、ロシアの風土に裏打ちされた音色の味わい、個性と自発性に富んだ積極的姿勢は、旧きよき時代の「香り」の進化版であり、彼らの存在は、グローバルスタンダード化が進む現代において、非常に貴重といえる。舞台上での彼らは、愛想をふるまうこともなく、実に素直である。しかし、洒落た雰囲気のアンコールで、会場を和ませ、舞台を後にした彼らを見て、この人たちは凄いと確信した次第である。


(公演情報)

2014年1月26日(日)14:00開演
会場:みなとみらい大ホール

指揮:ユーリ・テミルカーノフ
独奏:庄司紗矢香(Vn)

サンクトぺテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35
(アンコール:パガニーニ:「虚ろな心の主題による変奏曲」よりテーマ)
ムソルグスキー(ラヴェル編曲):組曲「展覧会の絵」
(アンコール:アルヴェニス:タンゴ)
[2014/01/26 20:16] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(2) |
カンブルラン指揮読響―第533回定期演奏会「イタリアのハロルド」ほか
1月14日午後7時前、サントリーホールへ。シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団による第533回定期演奏会。G.ガブリエリ、ベリオ、ベルリオーズの3作品による意欲的なプログラムが披露された。

筆者の座席は、指定席であるRB9列目。入場者数は6割程度か。後半になって若干持ち直したものの、1階席の最前方及び後方にまとまった空席があったほか、2階席も、Cブロック後方やRD及びLDブロックがほとんど埋まっておらず、ステージを囲む座席も半分程度の埋まり具合であり、全般的にかなり空席が目立った。地味なプログラムゆえ、やむを得ないのかもしれないが、こうしたプログラムで集客できないとなると、東京のクラシック音楽界の先行きは暗いといわざるを得ない。

さて、プログラム前半一曲目は、ガブリエリのカンツォーナ。サクラ・シンフォニア集からの選曲である。ヴェネツィアのサン・マルコ寺院のステレオ効果を活かすべく、カンブルラン自身の編曲により、三つの楽器群(舞台中央奥にトランペットとトロンボーン、真ん中にオーボエ、イングリッシュ・ホルンとファゴット、前方に指揮者を囲むように弦五部)によって演奏された。

教会旋法をもとにしたポリフォニックな作品であり、実際、イタリアの教会を想起させるような柔らかい響きは、サントリーホールの空間には非常に新鮮に響いたことは確かだ。弦楽器の人数を4-4-4-3-2に絞ったことで、舞台上の空間に隙間ができ、音の分離が物理的にも感じとれたこともプラスに働いていた。しかし、金管楽器を中心に細かいミストーンが少なくなかったことに加え、オーケストラ全体としても、ポリフォニックな和声進行に不可欠な純正律によるハーモニーがほとんど成立しておらず、かなりの違和感があった。弦楽器はノン・ビブラートで端正に演奏していたが、当然のことながら、古楽器であれば醸し出せるような香りやボリューム感は期待できず、存在感を発揮しきれなかったことは否定できない。カンブルランのアイデアは面白かったが、結果的には、企画倒れとなってしまったようにも思われる。

プログラム前半二曲目は、ベリオのフォルマツィオーニ。時代は、ガブリエリの活躍したルネサンス後期ないしバロック初期から、20世紀後半へと飛ぶ。一曲目との共通項は、イタリアの作曲家であるという点と、複数の楽器群に分かれて演奏されるという点。なかなか凝った選曲である。

筆者の座席は、RBブロックであるため、左右対象に配置された金管楽器が生み出すステレオ効果などは、十分には把握できなかったが、七つの楽器群に分けられた楽器配置から発せられる音響は、ガブリエリの作品で感じたものとは別の意味で新鮮であり、特殊な楽器の組み合わせから生まれる音色の面白さを満喫させてくれるものであった。その点では、カンブルランの意図はそれなりに達成されていたのではなかろうか。ただ、この作品に秘められた斬新さや衝撃が十分に再現されたかといえば、まだまだ至らない点があったようにも思われる。

読響は、この複雑怪奇な作品をキチンと処理できており、この点では、一定の評価は可能であろう。ただ、カンブルランを除くと、ステージ上で、この作品の全体像を掌握できていた者はおそらく存在せず、各プレイヤーは、自分のパートを処理することに精一杯になってしまっていたように見受けられた。それゆえ、楽器の重なり合いにより生み出される音響効果を見越した奏法というところにまで、考えを至らせるだけの余裕がなかったのではなかろうか。また、中盤は割とよい流れが生まれていたものの、全般的に恐る恐る音を発するような場面が多く、複数の楽器群から同時あるいは時差をもって発せられる音の衝突がもたらすであろうスリルは体感できなかった。準備期間がもう少し長ければ、そうした音の連関にまで意識を向けることが可能となり、よりビビッドなスペクタルが花開いたであろう。惜しい仕上がりであった。

休憩を挟んで、プログラム後半は、ベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」。独奏は、カンブルランの指名を受けた読響ソロ・ヴィオラ奏者の鈴木康浩が務めた。

さすがはカンブルランから「一緒に《ハロルド》を演奏したい」と熱望されただけのことはある。鈴木の奏でる明るく朗々としたヴィオラの音色は「ハロルド」そのものであり、その発せられた最初の音から直感的に全てが受け入れられるような感覚となった。オーケストラの方も、第一楽章冒頭では、ベリオの余韻が残り、音色に硬さが残っていたが、鈴木が「ハロルド」語りを始めると、明るく優しく柔らかい響きへと瞬時に様変わり。ホール全体の集中が高まり、その後は、カンブルラン、鈴木、読響の三者の固い絆に後押しされ、熱い想いのほとばしる神がかり的な演奏へと高まっていった。

この日の名演を支えたのが、カンブルランのオペラ指揮者としての卓越した手腕であることは、言うまでもない。独奏とオーケストラのアンサンブルの橋渡しから、響きのバランス、全体構成を踏まえたテンションの運び方まで、そのセンスは見事に発揮されていた。最終楽章において、弦楽アンサンブルをオルガン前に別配置し、「ハロルド」役の鈴木がPブロックに降り立ち、客席最前方で最期を奏でるというアイデアは、なかなか斬新であった。

しかし、筆者は、この作品におけるカンブルランのタクトから、そうした空間デザイン的な演出とは別の次元で、演奏自体において、彼自身の強い「意志」を感じ取った。この日、カンブルランが目指したものは、彼が得意とするような色彩感の豊かな美しい世界とは、やや趣きが異なっていた。むしろ、ハロルドという人物の人間臭い部分も含め、生の世界と正面から向き合おうとしていた。それゆえ、カンブルランのタクトは、個々の響きを綺麗に創り込むというよりも、読響らしさを全面的に受容した上で、オーケストラと四つに組み、その魅力を最大限に発揮できる方向で、汗臭い共同作業にどっぷりと浸るスタンスであった。交響曲全体を「ハロルド」を主役とした一つの「オペラ」として捉え、ベルリオーズの描いた人物像に全員で共感をしながら、ホール全体で同じ時間の流れを共有することにより、日本人の潜在意識の中にある強い結束力を呼び覚ます。カンブルランとしても、このような音楽体験を実現できるのは、世界中を探しても、この日本だけなのではないだろうか。カンブルランの常任指揮者就任から四年弱を経て、このコンビが新しい扉を開いた瞬間に立ち会えたような予感がした。

音楽には「力」がある。終演後は、割れんばかりの拍手に包まれた。この少ない入場者数からは想像ができないくらいに、拍手の音量が大きく、そして演奏に負けないくらいに拍手が熱かった。近年稀にみるほどの充実した名演であり、筆者個人としても、年明け以来、もやもやとしていた気持ちがスカッと晴れ、元気をもらえた素晴らしい演奏会であった。


(公演情報)

第533回定期演奏会

2014年1月14日(火) 19:00開演
会場:サントリーホール

指揮=シルヴァン・カンブルラン
ヴィオラ=鈴木康浩(読響ソロ・ヴィオラ奏者)

ガブリエリ:カンツォーナ(「サクラ・シンフォニア集」から/カンブルラン編)
ベリオ:フォルマツィオーニ
ベルリオーズ:交響曲「イタリアのハロルド」 作品16
[2014/01/15 00:01] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
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