ましましの音楽日記
G.ヴェルディの作品をこよなく愛するオペラ愛好家による音楽日記です。筆者が鑑賞した海外でのオペラやコンサートの模様や、筆者自身が日頃行っている音楽活動などについて、不定期に綴っていきます。
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ケルン・ミュンヘン行き(11年12月)①―サラステ指揮ケルンWDR響
12月9日夕方、タリスにてブリュッセル南駅からケルン中央駅へ。午後7時半すぎ、ケルンのフィルハーモニーに到着。ユッカ=ペッカ・サラステ指揮ケルンWDR交響楽団による定期演奏会。ベートーヴェンの序曲「コリオラン」、シェーンベルクのピアノ協奏曲、ブラームスの交響曲第3番が採り上げられた。

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筆者の座席は、Fブロック17列目。正面中央である。弦楽器の音が若干遠く、多少ピンボケ気味に感じたが、舞台上に並んだ各楽器の響きは立体的に浮かび上がり、残響と音圧も適度に感じられる。印象としては、サントリーホールの2階席中央前方よりも、やや舞台に近づいたといったところか。このホールの音響は、文句なくトップクラスといえる。

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客席の入りは75%くらい。客席の中央付近は、馴染みの定期会員が占めているため、とてもマナーが良かったが、端や後方には一見の観光客が散見され、演奏中にフラッシュを焚いたり、携帯を鳴らしたり、楽章間でこれ見よがしに拍手をしたりなど、ありとあらゆる妨害を展開してくれた。親に連れられた小学生くらいの子供達が静かに座って聴いていたのとは好対照。チケット料金が安いと、場違いな客が混ざるから困る。

プログラム前半一曲目は、ベートーヴェンの序曲「コリオラン」。この曲は、古代ローマの英雄コリオラヌスを主人公にしたコリンの戯曲を題材とした演奏会用序曲で、第二主題にロマンチックなムードを感じさせるが、曲全体を通じ、8分音符単位で時々刻々と流れる緻密な構成となっているため、旋律の伸びやかさと構造の厳格さの兼ね合いが難しい。また、後期の作品と比べると、造りがシンプルなため、粗が見えやすく、勢いで押し切ると陳腐な印象になってしまう。それゆえ、多くの巨匠らが、工夫を凝らしながら、様々な流儀により演奏を繰り広げてきた。

この日のサラステは、ドイツロマン派に引き寄せたアプローチ。フレーズの伸縮を多用するが、足し算よりも引き算を重視したさっぱり系の響きを志向し、各旋律を所定の枠の中にストンと収める。音楽の見通しが良く、オーケストラ全体で8分音符単位の鼓動が共有できているため、一つの生命体の息吹のように感じられた。弦楽器の素養のある指揮者は、内声部の刻みを骨格に据えた音楽創りを目指すので、音楽の安定感と自然さは抜群である。

もちろん、ドイツのオーケストラらしい音の厚みも要所でしっかりと現れていた。冒頭の弦楽器のユニゾンでは、低弦が空気を動かすし、終盤のクライマックスに向けて音を積み上げていく箇所では、ホルンと中低弦が充実の響きで全体を支える。

過度に熱くはならないが、音楽の高揚感は感じられ、作品全体が一つの絵巻物のように浮かび上がってきた。熱血漢には物足りないだろうが、これはこれで一つの成功例といえるだろう。

プログラム前半二曲目は、キリル・ゲルシテインを独奏に迎え、シェーンベルクのピアノ協奏曲。

この日の演奏では、ホールの機能性の高さを改めて認識することができた。このような大きな会場で、ピアノそのものの響きを堪能できるというのは、そうそうある話ではない。オーケストラとのバランスも良く、協奏曲の醍醐味を存分に味わうことができた。

作品自体は、厳格な十二音技法により書かれているため、かなり難解だが、この日の演奏では、しなやかなフレーズが飛び交い、メリハリも明快であったため、だいぶ聴きやすく仕上がっていたといえる。オーケストラは、集中力を弛緩させることなく、適度な緊張感の下で、きっちりと仕事をしており、安定感があった。

音楽的なアピールがもう少し強いと、より説得的な演奏になったように思われるが、「人生は何もなく過ぎてゆく」というこの作品の帰結を前提に全体を鳥瞰すると、むしろ綺麗にまとめてしまった方がよいのかもしれない。

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一つ余談だが、このホールでは、ピアノの出し入れは、ステージの一部を可動式リフトで下げて行う。サントリーホールと同じ方式である。多くの観客が物珍しそうに観察していた。

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さて、休憩を挟み、プログラム後半は、ブラームスの交響曲第3番。弦楽器が1プルトずつ増強され、16型のフル編成による演奏。プログラム前半で気になった弦楽器の音圧の物足りなさも、だいぶ解消された。

サラステのアプローチは、基本的にはベートーヴェンと同様。草食系ドイツロマン派とでも評しようか。サラステは、旋律の歌わせ方が上手く、響きに対するセンスが鋭敏であり、この作品では、そんな彼の持ち味が特に発揮されていたと思われる。

第一楽章冒頭から、音楽の流れがとてもスムーズである。4分の6拍子の拍子感と8分音符の流れが呼応しているのが素晴らしい。また、第二主題の木管楽器のsubito ppは絶品であった。展開部では、ドイツのオーケストラらしいパワフルな中低音が鳴り響き、いわゆるモダンなブラームスの理想型に近いバランスが実現されていた。コーダ冒頭では、ボルテージが上がり、勢いが増したが、過度に力むことなく、そのまま着地点に向けて収まっていったあたりが秀逸である。

第二楽章でも、旋律が伸びやかに歌い、和声が鮮やかに花開く。速めのテンポ感が心地よい。なお、冒頭の中低弦が完璧な仕上がりであったのには、感心させられた。ここは、シンプルだが、バランスが崩れたり、濁りが生じたりと、割と粗が出やすい箇所である。また、コーダのテンポ設定も巧みで、過度に構えることなく、綺麗に一つの山を描き上げていた。巷には脂ぎった演奏が多く存在するが、適度なメリハリをつけつつも、全体をさらりと聴かせたのはさすがである。中間部のコラール風の断片のつながりで、管と弦で発音のタイミングにズレが生じたのが惜しい。

最も感銘を受けたのは、第三楽章である。淡く上品な旋律の中に、8分音符の伴奏が見事に織り込まれ、多彩な響きの移ろいが瞬いた。

第四楽章では、オーケストラに熱が帯び、腰の据わった響きが展開した。ただ、力が入っても、オーケストラのキャパシティに余裕があるので、息苦しくはならなかった。コーダも失速することなく、綺麗にまとまった。末尾に回想される第一楽章第一主題において、弦楽器の移弦のタイミングがパーフェクトではなく、旋律に濁りが生じたのが惜しかった(重箱の隅を突くようだが、この作品の最大の魅力は、末尾9小節間の澄み渡る清らかさにあるといっても過言ではない。)。

ケルンWDR響は、さすがの貫禄で、伝統に支えられた底力を感じさせた。明るめのモダンな響きで、日本の在京プロオーケストラと方向性を同じくするが、響きのキメの細かさと和声のバランスの点で、一線を画している。この僅かな差こそが、トップクラスになれるかどうかの境目なのだ。技術的な傷も若干見られたが、全般を通じ、プロフェッショナルを感じさせる良い仕事ぶりであった。

熱狂はないが、しみじみとした感慨に浸れる良い演奏会であった。

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終演後は、ブラウハウス・ジオンで簡単に食事を済ませ、午後11時46分発のシティナイトラインCNL419にてミュンヘンへ。この時期、ドイツ郊外の家々では、窓やベランダ、庭木などに、ワンポイントのイルミネーションを施している。そうした風景を嗜んでいるうちに、自然と眠りについていた。

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ミュンヘン到着は、翌朝の午前7時半前。この週末、西欧の各都市は冷え込みが厳しい。ミュンヘン市内も朝方から雪が舞っていた。中央駅到着後、宿泊先であるキングス・ホテル・ファースト・クラスにアーリーチェックインし、しばし休憩。


(公演情報)

09.12.2011 Friday 20:00
Kölner Philharmonie

Kirill Gerstein Klavier
WDR Sinfonieorchester Köln
Jukka-Pekka Saraste Dirigent

Ludwig van Beethoven / Ouvertüre c-Moll zu Heinrich Joseph von Collins Trauerspiel "Coriolan" op. 62 (1807) für Orchester
Arnold Schönberg / Konzert für Klavier und Orchester op. 42 (1942)
Johannes Brahms / Sinfonie Nr. 3 F-Dur op. 90 (1883)
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[2011/12/13 06:52] | 海外視聴記(ケルン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
シュトゥットガルト・ケルン行き(11年12月)③―シュテンツ指揮ケルン歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」
12月4日午後6時前、ICE974とICE122を乗り継ぎ、ケルン中央駅に到着。宿泊先であるゲネウィッグ・コマーツ・ホテルにチェックイン。設備は質素だが、綺麗にまとめられており、駅前という立地の良さ、スタッフの愛想の良さ、お手頃な値段に照らすと、満足度は高い。

午後7時すぎ、ケルン歌劇場へ。マルクス・シュテンツ指揮ケルン歌劇場による「ナクソス島のアリアドネ」。今シーズンのプレミエ公演。日曜日の夜のためか、客席は7割程度の入りで、同じ価格帯の中で条件の良くないエリアは、列単位で席が空いていた。

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この歌劇場の階上席は、段々畑のような形状をしている。

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筆者の座席は、2.Rangの中央下手側Iブロックの1列目。このブロックは、前にせり出しているため、舞台からの距離も近く、視界を遮る物もない。値段も安く、かなりお得な座席である。

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この作品は、オーケストラが36人編成の室内オペラで、本編の前に置かれた長大なプロローグでオペラ制作過程の経緯やいざこざが描かれるという異質な作品である。「アリアドネ」の物語自体は、精神性の高い悲劇だが、この作品では、世俗的な茶番劇が大々的に混ぜられた結果、悲劇と喜劇の結合したユニークな作風に仕上げられた。
それゆえ、演出上は、精神と世俗、その間に立つ作曲家という3つの立ち位置のバランスが難しい。

また、音楽的にも、リヒャルト・シュトラウスの要求水準を満たすことは、至難の業といえる。
というのも、作曲家、悲劇を象徴するアリアドネ、喜劇を象徴するツェルビネッタという3種類のソプラノを主軸に、それぞれが展開する話の内容に対応したキャスト陣を揃えなければならない。シュトラウスが各役者に与えた音楽に妥協はなく、出番が少ない役者であっても、それ相応の実力者を配しなければ、ボロが露呈してしまう。
しかも、オーケストラは、室内楽の延長線上にあり、各奏者には、高度なソロが多く割り当てられている。シュトラウスの音楽のエッセンスが凝縮された透明度の高いオーケストレーションは、オーケストラに対して卓越した技巧と純度の高い合奏力を求める。
したがって、優れた上演に接する機会は、そうあるものではない。

この日の公演に関していえば、演出的にも音楽的にも、理想像とはいえないが、ケルン歌劇場の総合力が如何なく発揮されており、総じて納得できる仕上がりであった。

キャスト陣に関しては、作曲家、ツェルビネッタ及びバックスがプレミエメンバーとは異なっていた。最も拍手が大きかったのは、ツェルビネッタ役のアンナ・パリミナ。超絶技巧を駆使したオペラ史上屈指の難曲と名高い長大なアリアを、切れのある演技とともに、完璧に歌い上げ、これが観客の心を掴んだようだ。細めの声ゆえ、プロローグにおけるアンサンブルでは、相対的にみてインパクトに欠けていたが、喜劇の象徴という役回りをパリっと演じていたと思われる。作曲家役のステファニー・ハウツェールは、苦悩する役柄を見事に演じていたが、最高音に近いあたりで声に無理が生じていたのが惜しかった。アリアドネ役のバーバラ・ハーヴェマンも、落ち着きのある表現で好演だったが、やはり最高音に近いあたりで力みが感じられた。バックス役のスコット・マックアリスターは、声に伸びと力がなく、アリアドネに変身の奇跡をもたらす運命の恋人というイメージからは程遠かった。その他のキャストは概ね水準以上。アンサンブルのまとまりの良さから周到な準備の軌跡が窺われた。

ケルン・ギュルツェニヒ管も善戦していた。シュトラウス特有の和声感が花開くまでには至らず、また細かな傷も散見されたが、手堅くまとめられており、水準以上の仕上がりであったといえる。愛の二重唱のテーマなどの幅の広い旋律では、シュトラウスらしい豊麗な響きも立ち上がっていた。

シュテンツも、各場面を丁寧に創り上げていたが、彼の指揮は、やや求心力を欠くので、音楽的に地味な場面で緊張感が弛緩する瞬間が垣間見られたのが残念なところ。

演出に関しては、喜劇の要素を強く意識させるアプローチ。コメディのような演技や衣装がふんだんに用いられていたが、品位を失わないギリギリのところで止められていたあたりから、バランス感覚の良さが窺われる。作曲家、アリアドネ、ツェルビネッタという3つの軸も明快で、オーソドックスな中にモダンなセンスが光る。観ていて楽しくなる舞台であった。

もっとも、プロローグで作曲家が夢中に語っている際に、ホテルマン風の集団が舞台中央を颯爽と横切ったり、フィナーレでアリアドネとバックスが二重唱を歌っている際に、骸骨や原始人や動物風の衣装を着た役者が周囲をウロウロ歩き回るなど、コメディの要素を引っ張りすぎた場面も見受けられた。このあたりは、もう少しスッキリ創ってもよかったかもしれない。

ともあれ、圧倒的な感動を誘うというほどではなかったが、バランスの取れた良い公演であった。こういうレベルの高い公演が日常的に行われているということは、羨ましい限りである。

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終演後は、Fruh am Domでケルシュを数杯立ち飲みし、おとなしくホテルに戻った。翌朝は午前6時44分発のタリスでブリュッセルへ。毎度お馴染み、ブリュッセル中心部の鉄道渋滞のため、ブリュッセル南駅には20分の延着。しかも、先週金曜日に引き続き、この日も、市内のトラムとバスがストライキでほぼ壊滅していた。もっとも、5ヶ月間のブリュッセル滞在を経て、この程度では全く動じなくなった。


(公演情報)

ARIADNE AUF NAXOS / Richard Strauss (1864 - 1949)
So 04. Dez. 2011 Opernhaus / 19:30 bis 21:30

Musikalische Leitung - Markus Stenz
Inszenierung - Uwe Eric Laufenberg
Der Haushofmeister - Harald Kuhlmann
Ein Musiklehrer - Johannes Martin Kränzle
Der Komponist - Stephanie Houtzeel
Der Tenor / Bacchus - Scott MacAllister
Ein Offizier - Stefan Kohnke
Ein Tanzmeister - Martin Koch
Ein Perückenmacher - Sévag Serge Tachdjian
Ein Lakai - Young Doo Park
Zerbinetta - Anna Palimina
Primadonna / Ariadne - Barbara Haveman
Harlekin - Miljenko Turk
Scaramuccio - Gustavo Quaresma Ramos
Truffaldin - Matias Tosi
Brighella - Jeongki Cho
Najade - Gloria Rehm
Dryade - Adriana Bastidas Gamboa
Echo - Ji-Hyun An
Orchester Gürzenich-Orchester Köln
[2011/12/06 05:08] | 海外視聴記(ケルン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
ハンブルク・ケルン行き(11年9月)④―シュテンツ指揮ギュルツェニッヒ管「千人の交響曲」
9月25日午後6時、国鉄特急IC2329にてケルンに到着。宿泊先であるシティ・クラス・ホテル・カプリースにチェックインし、午後7時半にフィルハーモニーへ。

この日は、マルクス・シュテンツ指揮ケルン・ギュルツェニッヒ管弦楽団(ケルン歌劇場管弦楽団)によるマーラー「千人の交響曲」の演奏会である。名前のとおり、舞台上、そして舞台奥の客席は、オーケストラと合唱のメンバーに埋め尽くされた。

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筆者の座席は、ブロックBの6列目の正面。実際には、1列目と2列目は撤去され、ステージが前方に迫り出していたため、前から4列目であった。ステージからの距離が近すぎるため、一抹の不安を覚えたが、実際に始まってみると、全くの杞憂であった。ケルンのフィルハーモニーは、本当に良く出来たホールである。この近さでも、生音が剥き出しになることはなく、ヘッドフォンで聴いているかのような立体的で臨場感に溢れる音像が楽しめた。

この座席の位置では、冷静に音楽を鑑賞することは、到底不可能である。眼前から、舞台奥から、上方から、そして左右からと、次々に飛んでくる重みのある響きの数々。それぞれに目を見開いているうちに、第一部が終わってしまった。

第一部終了後、シュテンツは、かなり長めの休止を置いたが、驚くべきことに、この間、満席の場内からはほとんど物音がしなかった。聴衆は皆、演奏に圧倒され、静まりかえってしまったのだ。これは、欧州では滅多に見られない光景である。

第二部も仕掛けが盛りだくさん。舞台中央から突如聞こえてきたマンドリンは、とても鮮烈だったし、栄光の聖母が舞台上手袖の頂上で歌い始めた姿も美しかった。とどめの一撃は、客席の最後部にずらっと並んだ金管バンダ。音のスペクタクルに、思わず涙腺が緩みそうになる。

この日の公演で特筆すべきは、合唱の充実である。響きの深さと分厚さ、言葉の自然さ、どれをとっても、そしてどのコーラス部隊をみても、申し分ない。身体が楽器というのは、こういうことをいうのか、と心底納得した。これだけのメンバーを揃えることは、たとえ欧州であったとしても、決して容易なことではないだろう。ケルン歌劇場の本気度の高さを実感した。

オーケストラも、ハンブルクフィルよりも一枚上手。歌劇場付きのオーケストラらしく、合唱や独唱とのバランスの図り方が絶妙である。強すぎず弱すぎず、どんな場面であっても「声」がくっきりと浮かび上がる最良のバランスで、音楽が進行する。また、ドラマの創り方も巧い。多少の時差が生ずる場面もあったが、これだけの大編成であれば、やむを得ないだろう。シュテンツも、全体を伸びやかに歌わせつつ、手綱を引くべき箇所は手堅くコントロールし、緊張感のある流れを生み出していた。

フィルハーモニーの音響空間をフル活用したこの日の公演は、マーラーがスコアに描いた「音」の世界を存分に楽しませてくれた。それにしても、これだけたくさんの仕掛けを仕込んだマーラーの頭の中は、いったいどうなっていたのだろうか。

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終演後は、ブラウハウス・ジオンで、焼きソーセージとビールを。フィルハーモニーのすぐ近くなので、演奏を終えたばかりの合唱団のグループの一部も来訪し、ビールを片手に盛り上がっていた。

翌朝は午前6時44分発のタリスで、ケルンを出て、ブリュッセル南駅へ。いつもどおり、ブリュッセル南駅付近まで来ると、列車は立ち往生。この時間帯は、ブリュッセル駅周辺は、列車が立て込むため、ノロノロ運転。この日は、24分遅れで到着。ブリュッセルに帰ってきたなと感じる瞬間である。


(公演情報)

25.09.2011 Sonntag 20:00 Uhr
Kölner Philharmonie

Kölner Chorkonzerte 1
Gustav Mahler
Sinfonie Nr. 8 Es-Dur (1906)
für Soli, Knabenchor, zwei gemischte Chöre und Orchester
"Sinfonie der Tausend"

Gürzenich-Orchester Köln
Markus Stenz / Dirigent

Barbara Haveman / Sopran
Orla Boylan / Sopran
Christiane Oelze / Sopran
Anna Palimina / Sopran
Petra Lang / Mezzosopran
Maria Radner / Alt
Brandon Jovanovich / Tenor
Hanno Müller-Brachmann / Bariton
Günther Groissböck / Bass

Mädchen und Knaben der Chöre am Kölner Dom
Chor des Bach-Vereins Köln
Domkantorei Köln
Kartäuserkantorei Köln
Philharmonischer Chor der Stadt Bonn
Vokalensemble Kölner Dom
[2011/09/30 04:53] | 海外視聴記(ケルン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
ケルン行き(11年8月)②―バレンボイム指揮ウェスト・イースタン・ディヴァン管
8月28日午前、ドイツ国鉄でケルンからボンへ。所要時間は約30分。
ボン中央駅に降り立ち、ミュンスター広場のベートーヴェン像を拝んだ後、ベートーヴェンハウスへ向かう。希少価値の高い展示品が並んでいて、ザルツブルクのモーツァルトハウスよりも充実度は高かった。

正午すぎにケルンに戻り、クラウディウス・テルメというライン岸辺のスパ温泉に行ってみた。温泉施設ということだが、実際はサウナとプールが中心で、日本人が想定する温泉からは程遠い。混浴であることにも驚かされる。文化の違いをまざまざと実感。また、サウナに入っているうちに、眼鏡のレンズに傷がついてしまい、意気消沈。海外生活は、眼の前に立ちはだかる様々な障壁との闘いの連続である。

午後7時すぎ、昨夜に引き続き、フィルハーモニーへ。この日の演目は、ダニエル・バレンボイム指揮ウェスト・イースタン・ディヴァン・オーケストラによるベートーヴェン・チクルスの最終日。交響曲第9番のみの一曲プロである。

この日の座席は、正面中央の20列目。ステージの全体が見渡せる良いポジションだ。

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全体を通じ、伝統的なドイツ系の「第九」の王道を行く演奏であった。基本的な方向性は、昨日と同じだが、交響曲第7番や第8番と比べると、目新しい仕掛けはあまり見られず、オーソドックスな解釈であったと思われる。

さて、実際の演奏の方だが、昨日と比べると、管楽器や弦楽器のハーモニーの和声感がより感じられ、アンサンブルの精度も上がっていた。

第一楽章に関しては、冒頭の1stヴァイオリンとチェロによる五度の下降形において、切り口が完全には揃わず、滲んでしまった点、また、チェロが大きなブレスで歌い上げている際に、1stヴァイオリンの16分音符によるスタッカートの音型が先走ってしまった点、バレンボイムが手綱を締めてテンポを前へ進めようとした際に、オーケストラ内に微妙な時差が生じた点を除けば、無難な仕上がり。音楽的には、16分音符を基調としたタイムフレームで、一瞬の隙もなく、密度の濃い響きで埋め尽くされており、よく練られていたが、オーケストラ全体としてのベクトルがもう少し揃うと、より求心力と緊張感のある演奏になったと思われる。

音楽的に最も充実していたのは、第二楽章。この楽章は、ルーティンワークに陥りがちで、フレーズの処理やアクセントがおざなりになりやすいのだが、この日は、冒頭のフォルティシモからよく鳴っていたし、スコアに描かれた様々なニュアンスやメリハリをしっかりと表現できており、旋律の移り変わりがよく浮かび上がっていた。イレギュラーに挿入されるアクセントやスフォルツァンドの数々を、無骨に全てこなせていたのは、驚きである。途中に置かれた3拍子風の旋律で、意図して舞曲風な軽快さを表現するなど、心憎い演出もあった。ダカーポ前の弦楽器のハーモニーの美しさは、特筆に値する。

オーケストラは、おそらく第二楽章で波に乗れたのだろう。続く第三楽章は、音楽という枠を超え、祈りの世界となった。
1stヴァイオリンによる第一主題の提示部分における弦楽器の響きの瑞々しさは、彼らならではの純度の高い響きだ。木管セクションも歌心満載の伸び伸びとした響きでこれに呼応する。続く2ndヴァイオリンとヴィオラによる第二主題は、意外にも、静寂の中で淡々と語る口調による表現で、これがまた心にじーんと響く。
全体を通じ、初々しい明るい響きで、かつ、折り目正しい節度のある展開なのだが、各々のメンバーの想いと歌心がたくさん詰まっていて、味わいのある世界が生み出されていた。

そして第四楽章。低弦による歓喜の歌の提示では、ピアニシモが極限まで追求されており、聴衆の心がグッと舞台上に集まる。ヴァイオリンが入るとテンポを速め、続くテュッティでは開放的で前向きな賛歌へと変わった。
独唱部分を経て、合唱が参加すると、ホールは豊かな響きで包まれる。バレンボイムによる合唱のコントロールは実に見事だ。
テノールの独唱、男声合唱を伴う軍隊行進曲を経て、オーケストラのみによるフーガに入っても、オーケストラは落ち着いていた。この部分は、余裕のない団体の場合、舞台上は、さながら戦場のようになってしまう。この日の演奏では、適度なバウンド感やアタックがあり、盛り上がりは十分だったが、荒れ狂うことはなく、次に控える歓喜の大合唱へのブリッジとしての役割を見事に果たしていた。
そして迎えた大合唱は、異様なまでに前向きであった。ここでの高揚は、特にこの楽章の後半で描かれる様々な苦悩や後悔との対比において、重要である。
バストロンボーンと低弦に導かれて始まる"Seid umschlungen, Millionen!"も、叫び声にならず、堂々としたもの。
木管楽器とヴィオラとチェロのアンサンブルに始まる"Ihr, stürzt nieder"の一節は、ことのほか美しい。あまり目立たないが、トロンボーンが神々しい格調高い響きで、全体を支えていた。この部分の末尾の女声合唱は、高音をピアニシモでキープしなければならず、難所の一つに数えられているが、響きが濁ることなく、安定感があった。
二重フーガも余裕のある立体的な表現。バレンボイムによる音量のバランスのコントロールは、完璧である。
Allegro ma non tanto以下も安定した進行で、クライマックスに向け、期待が高まる。この辺りから最後にかけては、合唱にとっては、体力的にキツイ箇所であるため、フォルテ一本調子になりがちだが、この日は、フレーズ感があり、起伏も伴っていたのは、秀逸であった。
最後も、爆演系に陥ることなく、聴き応えのある仕上がり。
全体を通じて、とても説得力のある秀逸な演奏であった。

オーケストラは、技術的には万全とはいえないが、特にこの日は、チクルスの最終日ということもあり、個々のメンバーが心の底から音楽を愉しんでいる姿が手に取るようにわかり、プロオーケストラでは味わえない感動を呼び起こした。

合唱は、Vokalensemble Kölner Domが受け持ったが、これがまた上手かった。歌劇場の合唱団とは違い、響きがポリフォニックであるため、ベートーヴェンが描いた合唱の和声進行が見事にはまって聞こえる。これは、筆者にとって、初めての経験だった。

他方、独唱陣は、オーケストラや合唱の放っていたテンションの高さとは裏腹に、かなり醒めた感じ。声はよく通っていたが、感情が乗ってこない。バスのヴォルフガング・コッホによる冒頭のレチタティーヴォは、声を張り上げた棒読み的歌唱で、冒頭で低弦が築き上げた朗々とした威厳のあるレチタティーヴォにはそぐわなかった(そういえば、この人は、先日のザルツブルク音楽祭「影のない女」でも、こんな感じの歌い方であった。)。テノールのペーター・ザイフェルトは、一本調子で、表現に幅がない。ソプラノのアンナ・サムイルとメゾソプラノのヴァルトラウト・マイアーは、特に印象なし(もっとも、第九の場合、ソプラノやアルトは、若干控え目なくらいが丁度よいともいえる。)。聴くたびに思うが、第九の独唱は、ハズレが多い。独唱陣がアンバランスなケース、声だけに頼り内容を伴わないケース、逆に、表情を付けすぎて失敗するケースなど、失敗事例は山のようにある。筆者の経験上、変なストレスを感じずに安心して聴けたことは、あまりない。この日も、スター歌手を集めたキャスティングゆえ、大ハズレとはいえない(純粋に「声」という観点からは、聴き応えはあった。)が、内容的な詰めが甘く、もう少し作品を研究した上でステージに登場して欲しかった。

なお、この日はテレビ収録がなされており、そのカメラマン達の動きが舞台上の雰囲気を壊す場面が何度か見られた。こういう風景は、日本とあまり変わらない。残念な限りである。

カーテンコールは、またもやスタンディングオベーション。今回のチクルスでは、毎回恒例の儀式になっていたのかもしれないが、筆者の印象としては、この日の演奏は、正にそれに値する出来であった。バレンボイムは、独唱陣のカーテンコールはさっさと終わらせ、その後、オーケストラのメンバー一人ひとりと握手をして歩く。カーテンコールは20分以上続き、会場は和やかな雰囲気に包まれた。

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今回の感想としては、次の二点。

第一に思ったのは、ベートーヴェンの後期交響曲の深さ。二晩でベートーヴェンの後期の交響曲3曲を続けて聴いたが、こうして並べて聴いてみると、それぞれの曲の個性が浮かび上がって興味深い。交響曲第7番もよく出来た作品ではあるのだが、どちらかというと中期の延長ともいえ、音楽的な完成度という観点からは、交響曲第8番の方がより勝っているように思えた。そして、音楽という次元を超えたパワーを持ち合わせているのが交響曲第9番。ここに至っては、小細工は無用であり、正面から素直に真摯に楽譜と向き合うことのみが求められている気がした。

第二に思ったのは、バレンボイムのマエストロとしての実力。彼は、ここぞというところに向けたお膳立てが非常に上手い。テンポの運びや、出すべきアウフタクトの選球眼が、卓越しているのだ。前に聴いたスカラ座来日公演「アイーダ」は、疑問符の連続であったが、この人が振るドイツものは、間違いないと思った。オペラも含め、是非ともライブで体感しておきたいマエストロの一人といえる。

終演後は、ペータース・ブラウハウスにて、Rheinischer Soorbrodeを。テーブルを同じくした老夫婦と交わした会話において、「今日の演奏はとてもよかった。なぜなら、最後がアグレッシブにならず、ディリジェントであったからだ。」と語っていたのが印象的であった。ドイツ人にとってのベートーヴェンとは、そういうものなのかもしれない。

翌朝、午前6時44分発のタリスで、ブリュッセルへ戻る。色々あったが、充実した週末であった。


(公演情報)

28.08.2011 Sonntag 20:00 Uhr
Kölner Philharmonie

Anna Samuil Sopran
Waltraud Meier Mezzosopran
Peter Seiffert Tenor
Wolfgang Koch Bass

Vokalensemble Kölner Dom
Eberhard Metternich Einstudierung

West-Eastern Divan Orchestra
Daniel Barenboim Dirigent

Ludwig van Beethoven
Sinfonie Nr. 9 d-Moll op. 125 (1822–24)
für vier Solostimmen, Chor und Orchester mit Schlusschor über Schillers "Ode an die Freude"
[2011/08/30 05:12] | 海外視聴記(ケルン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
ケルン行き(11年8月)①―バレンボイム指揮ウェスト・イースタン・ディヴァン管
8月27日、朝一番のタリスでブリュッセル南駅からケルンへ。
午前9時すぎに到着後、大聖堂などを見学し、昼前にドイツ国鉄でデュッセルドルフに向かう。所要時間は約40分。目的は、麺処「匠」でのランチである。
麺処「匠」は、デュッセルドルフのみならず、近隣に駐在する日本人達が、わざわざ数百キロの距離を車で飛ばしてやって来るという噂のお店で、欧州に駐在する日本人ビジネスマンらの多くがブログ等でも紹介している有名店だ。正午ころにお店に行ったが、すでに行列が出来ており、その多くが日本人であった。

店内には、15分ほどで入ることができた。筆者は、極上味噌ラーメン、餃子、ミニチャーシュー丼、そしてキリン一番絞りを注文。
数ヶ月ぶりに口にした味噌ラーメン。西山製麺所からの直送されたちぢれ麺が、上品な味噌スープと絡み合い、正統派味噌ラーメンの味を創り出す。この感動は、欧州駐在経験のある者にしかわからないものだ。チャーシュー丼の醤油味とともに口に運ぶ白米の美味さもひとしおである。他方、餃子の方は、可もなく不可もなくといった感じで、また、キリン一番絞りも、筆者が舌で記憶していた味とはちょっと違う気もしたが、そこは文句は言うまい。たった2ヶ月でこの心境に陥っている時点で、自分が日本人だと痛感した。

食後は、インマーマン通りにある日本人向けの書店兼文具・食料品店などを見学し、少しだけ日本に思いを寄せる。ちなみに、このインマーマン通り、自分は日本にいるのではないかと錯覚するくらいに日本人で溢れていた。一本道をずらすと、そこは普通のドイツの街並みと変わらないだけに、何とも不思議な空間である。

さて、夕方ケルンに戻り、ホテルで休息を取る。今回滞在しているホテル、CityClass Residence am Domは、駅からも大聖堂からもフィルハーモニーからも徒歩2、3分という好立地。外は非常に騒がしいが、やむを得ない。午後7時半すぎにフィルハーモニーへ向かった。この日の演目は、ダニエル・バレンボイム指揮ウェスト・イースタン・ディヴァン・オーケストラによるベートーヴェン・チクルスの4日目。交響曲第7番と第8番を軸に据えたプログラムである。

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この日の座席は、上手側の12列目。想像していた以上に舞台が近く感じられる。

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初めて体験したフィルハーモニーは、ドイツらしい明るく伸びやかなサウンドが特徴的で、客席に座っていると、柔らかな残響に包まれるような感じがした。それでいて、音の分離はとてもよく、細部までよく聞こえた。
モダン建築ゆえ、趣はないが、響きの観点からも視野の観点からも、良く出来たホールだと思われる。

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さて、演奏の方だが、全体を通じ、ライン川を思わせるような大きな流れが脈々と流れゆく堂々たるベートーヴェンであった。
加えて、個々のフレーズの扱いが巧妙で、それらのつながりもとても良い。オーケストラのサウンドに個性がなく、また全員がバレンボイムの統率下にあるため、オーケストラからは、まるでバレンボイム自身がピアノを奏でているかのような、絶妙なニュアンスのタッチの数々が浮かび上がっていた。

この日は、弦楽器は16型(Cbと2ndVnはさらに1名増強)、木管楽器は倍という大編成だったが、バレンボイムの意図に従い、セクションごとに、フォルテシモからピアニシモまで、音量のバランスが徹底されており、聞こえるべき細かい声部に対する見通しが良かった。弦楽器によるスビトピアノやピアニシモも、かなり繊細に仕上げられていた。そして、充実の重低音に支えられた巨大なうねりは、バレンボイムの真骨頂である。

しかし、技術的な綻びが散見されたのも事実である。
最も気になったのは、和声感の不足。木管楽器の響きのバランスが悪く、弦楽器からも倍音が開けてこない。
また、プレイヤー間でのアウフタクトが合わず、若干先に飛び出してしまうパートがあったり、テンポが煽り気味になった際に、弦と管で多少の時差が生じてしまったりなど、アンサンブルとしての成熟度という観点からは、まだまだ課題が残る。

以下、曲別に気付いた点をコメントする。

一曲目のレオノーレ序曲第三番であるが、この曲の序奏は、シンプルであるものの、実際に演奏しようとすると、技術的に極めて難しい。案の定、この日も木管のハーモニーが定まらず、和声進行の緊張感は感じられなかった。
また、主部冒頭の弦楽器によるピアニシモの出だしも、ホールの響きの中に埋もれてしまった感じで、音の切り口が見えず、数小節経過してようやく落ち着いてくるという状況。
その後は、前述した大きな流れが生み出され、概ね順調に進んだが、コーダでは、一瞬危なっかしい箇所もあったような気がした。
この曲は、チクルスの初日にも演奏され、この日は急遽プログラムに加えられたが、それでも万全の仕上がりにはなっていなかったようだ。

二曲目の交響曲第8番は、太い毛筆により楷書体を力強く記したようなスケールの大きい演奏で、対旋律の切込みが深く、立体的な音像が構築される。レオノーレ序曲第三番よりも仕上がりは良い。
第三楽章のダカーポ後のアウフタクトで、一瞬の溜めを置くなど、なかなか手が込んでいるし、第四楽章のコーダの前に置かれたベートーヴェンによる自問自答のフレーズも、微妙なテンポの揺らぎを持たせ、コーダに向けた準備として説得力があった。
第一楽章の展開部や、第四楽章のコーダにおいて、音量を絞ったところから徐々に積み重ね、クライマックスへと運ぶあたりは、オペラの世界でも名声を轟かすバレンボイムならではのものといえようか。
このように、総じてよく考えられた演奏ではあったが、それでも、どこか物足りなさは残った。高度な解釈の一つひとつが、大きな流れの中で、座りの良いところにおさまっておらず、自然体としてのベートーヴェンとして昇華させることが出来なかったのかもしれない。

これに対し、三曲目の交響曲第7番は、かなり完成度が高かった。前の2曲と比べ、構成が簡明で、形にしやすいのだろう。曲の性質上、演奏者側にも自然と熱がこもるが、いわゆる爆演系には陥らず、節度を保った中身の濃い演奏であった。
第一楽章の展開部は、交響曲第8番と同様、音量を絞ったところから大きな山を築くが、その演奏効果は絶大である。第二楽章の冒頭は、この日の白眉であり、一つひとつ墨で音色を重ねていくような、そんな格調高い響きに、会場内は息を呑んだ。第四楽章は、ドイツ国鉄の列車が悠然と前へと進んでいくような感じで、重量級の音楽が徐々にスピードを上げながら、そのままゴールまで走り切ったという印象だった。
このように、なかなかの仕上がりであったが、それでも、先に述べたような綻びが散見されてしまったのが惜しいところである。

カーテンコールは、スタンディング・オベーションの大熱狂。筆者個人の印象としては、演奏自体はそこまでのレベルには至っていなかったようにも思われたが、ともあれ、このオーケストラの背景事情や、バレンボイムの棒に全力で喰らい付いていこうとする個々のメンバーの気持ちが、聴衆の心に通じたがゆえの結果だろう。

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ともあれ、とても良い演奏会であったことは確かである。

終演後は、近くの有名レストラン、エム・クリュッチェに入るも、深夜メニューの時間帯に切り替わっており、しかも筆者が注文したポテトスープと焼きソーセージはいたって普通の仕上がりで、可もなく不可もなくといった印象。雨も降り始めたことから、早々に引き上げ、就寝。


(公演情報)

27.08.2011 Samstag 20:00 Uhr
Kölner Philharmonie

West-Eastern Divan Orchestra
Daniel Barenboim Dirigent

Ludwig van Beethoven
Leonoren-Ouvertüre Nr. 3 C-Dur zu op. 72 (1806) für Orchester

Ludwig van Beethoven
Sinfonie Nr. 8 F-Dur op. 93 (1811–12)

Pause

Ludwig van Beethoven
Sinfonie Nr. 7 A-Dur op. 92 (1811–12)
[2011/08/30 05:02] | 海外視聴記(ケルン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
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