ましましの音楽日記
G.ヴェルディの作品をこよなく愛するオペラ愛好家による音楽日記です。筆者が鑑賞した海外でのオペラやコンサートの模様や、筆者自身が日頃行っている音楽活動などについて、不定期に綴っていきます。
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大野指揮都響―第737回定期演奏会「シェーンベルク、シマノフスキ、バルトーク」
6月19日午後7時前、東京文化会館へ。大野和士指揮東京都交響楽団第737回定期演奏会。シェーンベルクの「浄められた夜」、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」が採り上げられた。20世紀作品を組み合わせた通好みのプログラムである。

筆者の座席は、5階席R1列中央付近。この日のチケットは早々に完売であったが、台風接近の影響のためか、会場内には空席も散見される。

プログラム前半一曲目は、シェーンベルクの「浄められた夜」(弦楽合奏版)。月下の男女の語らいが題材となっている。

大野&都響は、デッドな音響の東京文化会館、しかも台風接近による大雨という弦楽器にとっては最悪のコンディションの下、後期ロマン派の流れを継承する大きな振幅をよく表現できていたと思われる。「音詩」というこの作品の構造を踏まえ、全体構成の中に各部分をバランスよく落とし込む音楽設計の巧みさは、マエストロ大野の持ち味の一つ。この日もそのセンスが光っていた。約30分の単一楽章から成るが、緊張の糸が途切れることはなかった。

しかし、優秀な都響の弦楽器セクションも、シェーンベルクのこの作品においては、限界を露呈してしまったといわざるを得ない。
第一に、微妙に移り行く和音の連鎖がハーモニーとして結合し合うレベルには及ばなかった。演奏者側で和声進行に対する感覚の共有が十分に図れていなかったように思われる。淡い響きの移ろいにふっと心を委ねるような愉しみ方ができると良かったのだが。
第二に、パート別に見た場合に、技術面で音色にムラや粗が散見されてしまった。オリジナルが弦楽六重奏曲ゆえに、パート内でのちょっとした滲みが全体の響きの中で大きく影響してしまう。頑張って演奏しているのは、手に取るように分かったが、キャパシティ不足で、全体としての余裕があまり感じられなかった。
第三に、特に後方プルトを中心に、様子を窺いながら前方プルトの後についていこうというスタンスが目立ち、弦楽器セクション全体としてのエネルギーが湧き上がってこなかった。一つひとつの音符を丁寧に弾こうとして、保守的な構えに陥ってしまったことによると推察される。この点に関しては、都響の弦楽器セクションとしてのイントネーションがより高いレベルで共有されるようになると、舞台全面から音楽の輝きが立ち上がるようになるであろう。

プログラム前半二曲目は、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番。庄司紗矢香が独奏を努めた。庄司は、筆者のお気に入りのヴァイオリニストの一人。シマノフスキを採り上げるということで、期待が高まる。

この日は、庄司のヴァイオリンが実に素晴らしかった。技術的に完璧であることは言うまでもないが、最初から最後まで、時間軸の全てに音楽が緻密に詰まっていたのは、彼女の徹底した研究と思考の成果といえる。大管弦楽の中から、七色に輝く一筋の光がスーっと放たれてくるような印象。以前と比べても、色彩感や響きの深みが格段に増しており、彼女の音楽はますます進化を遂げてゆくのだろうと確信した。

マエストロ大野も、庄司とは実に相性がよく、舞台上の二人からは、巨大な音楽のオーラが湧き上がってくるのが感じられた。指揮者と独奏者の共鳴が感じられる機会は、滅多にあることではない。

なお、都響は、技術的に難解なこの作品を破綻なく演奏し、またマエストロ大野のタクトの下、庄司の独奏を邪魔しなかったという意味では、十分健闘したといえるが、演奏者側におけるこの作品に対する理解度が十分であったかというと、そこは疑問符をつけざるを得ない。とりあえず楽譜通りに演奏してみました、という域を超えていなかったように感じた。もっとも、音楽に勢いが出てきた後半からは、ダイナミックなフレーズが大きな振幅で立ち上がり、管弦楽と独奏の融合が図られるようになったため、シマノフスキの音楽の面白さを感じることはできた。

プログラム後半は、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」。噂によると、前日のサントリーホールでの公演時には、第一楽章の末尾で事故が生じたとのことである。それが吉と出るか凶と出るか、やや心配であった。

演奏の方は、実に冷静で、個々のポーションを丁寧に積み上げていくスタイル。特に前半は、手綱を引き締めすぎることなく、各奏者に自由度を与えているため、響きやフレーズがいい具合にまとまり、そして音楽がつながっていく。無論、全体の設計が明快で、方向性が一貫しているので、時間軸が弛緩することはない。一つの方向に向かってまっすぐ進む妥協のない姿には、強い意思が窺われた。バルトークに民族色や土臭さを求める向きには不評だろうが、このような純音楽的アプローチは、筋が通っていると思う。

マエストロ大野がオーケストラにスイッチを入れ始めたのは、第三楽章「悲歌」の中盤と思われる。金管セクションによる悲痛な強奏を伴う一つのクライマックスが現れるが、その前あたりから仕掛けようとしていたように窺われる。ただ、音量の頂点に達したあたりで、金管楽器の音色にやや濁りが生じたためか、マエストロ大野がそれ以上にアクセルを踏むことはなく、それゆえ、やや煮え切らない印象になってしまったことは否定できない。

これに対して、第四楽章以降は、音楽的にも高揚が感じられるようになった。第四楽章「中断された間奏曲」では、有名なメロディを内向的な静けさで語らせた手法が秀逸。第五楽章「終曲」は、怒涛の速さで始まったが、フレーズに余裕を持たせながらも、アンサンブルを破綻させることなく、一気に手綱を締めるマエストロ大野のタクトは、鮮やかだった。

都響も、さすがにこの曲になると、何度も演奏した経験がある作品だけに、安定度が違う。全般的に高い水準の演奏で、マエストロ大野の要求には十分に応えていたといえる。ただ、彼のイメージからすると、響きや音色の点で、さらにもう一段階上の洗練が求められていたようにも思われ、音楽が完全に結晶化する次元にまでは至っていなかったようにも感じられた。

終演後は、都響会員向けの親睦パーティーに出席。マエストロ大野によると、この日の演奏会のプログラムには「二人きり」というキーワードがあったとのこと。確かに、シェーンベルクの「浄められた夜」は、月下の男女の語らいが題材であるし、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番は、友人の大ヴァイオリニスト、パヴェウ・コハニスキのために作られた作品。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」では、第二楽章「対の遊び」において、一対のソロ楽器が次々とテーマを重奏する。曲の雰囲気に照らしても、今回のプログラムはとても流れが良い。シマノフスキにおいては、マエストロ大野と庄司の共鳴もあり、「二人きり」というキーワードには納得であった。

歓談の際、庄司にも話を聞いてみた。彼女は、同じ曲を何度も弾き込むことの大切さ、そしてそのような活動とあわせて新しい作品に接していくことの大切さを強調していた。また、協奏曲は、室内楽だと認識しているとのことであり、指揮者やオーケストラとの掛け合いの中で、刺激的に音楽を創り出していくことの魅力を熱く語ってくれた。中でも、マエストロ大野との信頼関係は、非常に強固なもののようで、例えば、本番中、マエストロ大野がリハーサル中とは全く違った時間の取り方をすることがあり、そういう場面で、自分としてどのように表現するか、常に考えながら演奏できるあたりに歓びを感じている模様であった。彼女は、笑顔が素敵だが、ひとたび音楽の話になると、言葉を選びながら、内に秘めた熱い想いを実直に語る。自分の言葉を持った人だ。言葉の一つひとつが実に重い。外では台風に伴う風雨が吹き荒れる中、貴重な話を聞くことができ、大いに感銘を受けた。


(公演情報)

第737回 定期演奏会Aシリーズ

2012年6月19日(火)19:00開演
会場:東京文化会館

指揮:大野和士
ヴァイオリン:庄司紗矢香

曲目
シェーンベルク:浄められた夜
シマノフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番
バルトーク:管弦楽のための協奏曲
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[2012/06/22 15:38] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
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