ましましの音楽日記
G.ヴェルディの作品をこよなく愛するオペラ愛好家による音楽日記です。筆者が鑑賞した海外でのオペラやコンサートの模様や、筆者自身が日頃行っている音楽活動などについて、不定期に綴っていきます。
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ウィーン行き(11年11月)②―ガッティ指揮ウィーンフィル「ドイツ・レクイエム」
11月20日午前10時半、ウィーン楽友協会大ホールへ。ダニエレ・ガッティ指揮ウィーンフィル及びウィーン楽友協会合唱団による演奏会。ブラームスの出世作「ドイツ・レクイエム」が採り上げられた。

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座席は、3.Parterre-Loge Rechtsの1列目。舞台のほぼ全体を至近距離で見渡せる。音響的には、10月に舞台真横の座席で聴いた印象と比べると残響は薄いが、平土間後方の座席よりも音の分離がよく、柔らかな音色がクリアに届く場所である。上手側の座席であったため、ヴァイオリンの音色は若干遠いが、逆に、近くに位置する低弦の重い響きがお腹に伝わってきた。

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演奏開始前、ホール内が完全に静まり返った。楽友協会大ホールという場がそういう雰囲気を醸し出しているのだろうか。ここには、他のホールや劇場とは明らかに違う空気が存在する。

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第一楽章冒頭、コントラバスの鼓動がホール内の空気を震わせる。空気が震えるという感覚は、いまだかつてこのホールでしか体感したことがない。宇宙の果てから何か巨大な建造物が立ちあがってくるかのような錯覚を覚える。序奏コラールが彼方に沈んでいくと、この作品の中核をなす「Selig sind」のモチーフが呟くように唱えられる。透明感のある厳粛なコーラスに身を包まれ、このわずか数十小節の時間を共有できただけでも、わざわざ足を運んだ価値があるといえるだろう。

さて、演奏の方だが、上述のとおり、冒頭の印象に照らし、かなり期待が高まったものの、結果的には、先月末にチューリッヒ歌劇場で鑑賞したガッティ指揮の「オテロ」のときと同様、空虚な演奏の域を超えなかった。

これを最初に感じたのは、第一楽章の中盤付近である。最初のうちは、多少の乱れが見られても、善解しながら聴き進めていたが、ある瞬間に、緊張の糸がプツンと切れてしまったのだ。要するに、テンポが無意味に遅く、フレーズがつながっていかない。このテンポの下では、よほどの意思がない限り、合唱もオーケストラも、フレーズの末尾で失速気味になる(これでもウィーンフィルはよく持ち堪えた方である。)。オーケストラの中で、テンポの感じ方がまちまちであったこととも相まって、音楽の流れが淀んでしまい、時間軸の中に僅かな隙間が空く瞬間が散見されてしまったのだと思われる。

第二楽章冒頭も遅い。合唱はともかく、オーケストラは牛がノロノロ歩いているようであるし、音程も定まっていない。22小節目の3拍目に訪れるlegato ma un poco marcatoで突如テンポを引き締めるから、流れに乗れないオーケストラがここから数小節間にわたりバラバラになる。54小節目の3拍目のフォルテシモに向けて露骨なアチェルランドをかけるのは、考えがあまりに浅はかではなかろうか。長調に転じた「So seid nun geduldig」に始まる中間部も、停滞気味で、軽やかさは感じられない。

バリトン独唱に導かれて始まる第三楽章からは、音楽の性格が完全に変わってしまった。そこにブラームスの面影はなく、まるでヴェルディのレクイエムを聴かされているかのようだった。

バリトン独唱のデトレフ・ロートは、非常にオペラチックな歌い方で、ある意味で軽い。もう少しどっしりとした問いかけができないものだろうか。オーケストラに関しては、独唱部分のクライマックスで、金管楽器を鳴らしすぎたため、音が割れ気味になったのが、この日の最大の汚点である。音響がデッドなピット内ならまだしも、とりわけ豊かな響きで有名な楽友協会大ホールではこれは逆効果だ。

他方、後半のフーガは、金管楽器が執拗に聞こえるのが気になったものの、合唱、オーケストラとも、見事な仕上がりではあった。ただ、持続低音Dの地響きに関しては、最後にティンパニが祝祭的に叩き上げたため、この楽章限りである程度の解放に至ってしまったのが残念なところ。

第四楽章序奏部は、木管楽器の音程が揃わず、緊張感の不足が露呈する(ここに限らないが、この日のウィーンフィルは、決め所以外では、音程のブレが散見され、本領発揮という状態からは遠かったように思われる。終止和音が安定したのは、第二楽章の末尾のみ。)。この楽章に関しては、全体を通して綺麗にまとまってはいたものの、流れが淀み、散漫な感じであった。

第五楽章では、クリストーネ・シェーファーが、可憐でありながら、凛とした美しさを描き出した点が秀逸。

第六楽章は、もはや完全にヴェルディの流れ。こうなると、聴いている方としては、笑うしかない。この楽章に至ってようやく、それまではシラーっとした表情で弾いていたウィーンフィルが僅かに熱を帯びる。「勝利」のクライマックス、そして大フーガでは、弦楽器が弾きまくっていたが、その分、音は荒れた。

第七楽章は、「安息」というよりも「疲労」。とりわけ、合唱がゆっくりなテンポの下で支えきれず、音程が僅かにぶら下がり気味になっていたのは、指揮者の配分ミスである。オーケストラも、曲の体は保っているものの、一様に疲れが感じられ、ハーモニーにも滲みがある。

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結局、この日の演奏は、いったい何だったのだろうか。

合唱は、非常に充実していた。大味になることはなく、難所においてもブレることなく綺麗に歌い上げており、全般を通じて、大きなフレーズ感が感じられた。ボリュームも柔らかさも適度。これだけの高水準で、名目上はアマチュア合唱団だというから、驚きだ。

ウィーンフィルに関しても、通常通りのメンバーが揃っていたと窺われ、それらしい響きを随所に聴くことはできた。

ガッティは、合唱のコントロールに関しては、非常に卓越したテクニックを持っているし、ウィーンフィルを前にした彼の指揮は、基本的には、ウィーンフィルにお任せといったスタンスゆえ、今回の演奏会の指揮台に立つスペックを兼ね備えていたとは思う。

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しかし、何かが根本的に違う気がした。

ブラームスらしさを感じたのは、第一楽章などのごく一部分のパーツのみで、それ以外の箇所では、腑に落ちない違和感が頭から離れない。劇性は感じられても、ブラームス風の緻密な構成は見えてこない。「Selig sind」のモチーフの基本形、反行形、それらの逆行形の足跡が浮かび上がらないのは言わずもがな。

筆者が思うに、この作品では、その内向性ゆえ、ヴェルディのレクイエムとは正反対のアプローチが求められるといえのではなかろうか。この日の演奏では、その前提部分において、完全なボタンの掛け違えがあったように感じた。このあたりは、趣味や好みの問題なので、こういった演奏を全く否定するつもりはないが、少なくとも筆者自身が全く感銘を受けなかったのは事実である。

ウィーンフィルの名フルート奏者、ヴォルフガング・シュルツ氏が、この日をもって定年の模様。カーテンコールの際にガッティから花束を手渡されていた。中高生時代にフルートを吹いた経験もある筆者にとっては、実に感慨深い瞬間だった。

終演後は、伝統のあるカフェ、グリーンシュタイドルで軽くランチを食べ、市庁舎前広場で今週から開催されているクリスマスマーケットを散策。夕方に備え、午後3時すぎに、いったんホテルに戻る。


(公演情報)

Sonntag, 20. November 2011
11:00 - Großer Saal

Wiener Philharmoniker
Singverein der Gesellschaft der Musikfreunde in Wien

Daniele Gatti, Dirigent
Christine Schäfer, Sopran
Detlef Roth, Bariton

Programm:
Johannes Brahms, Ein deutsches Requiem, op. 45
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[2011/11/22 06:41] | 海外視聴記(ウィーン) | トラックバック(0) | コメント(0) |
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