ましましの音楽日記
G.ヴェルディの作品をこよなく愛するオペラ愛好家による音楽日記です。筆者が鑑賞した海外でのオペラやコンサートの模様や、筆者自身が日頃行っている音楽活動などについて、不定期に綴っていきます。
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テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグフィル―来日公演②
2月1日朝、ANA245便にて福岡へ。一幸舎博多本店と長浜ナンバーワン祇園店で、ラーメンをハシゴする。個人的には、綺麗に仕上がった前者よりも、基本に忠実な後者の方が好みであった。

午後2時すぎ、アクロス福岡へ。ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団による日本公演の千秋楽。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と交響曲第4番が採り上げられた。サントリーホールでの公演は、仕事の都合で行けなくなってしまったので、そのリベンジである。

会場の入りは、8割程度。この日に関しては、割と理解のある聴衆が集まったようで、演奏中のマナー違反も少なかった。ただ、東京の演奏会と比べると、客席の集中力の持続が薄かったのが残念だ。

筆者の座席は、2階バルコニーR1列6番。ステージに最も近いブロックである。上手奥に並ぶ金管セクションの雄姿を拝めないというデメリットを除くと、音の分離もよく、このホールの中で最も音響の良い場所の一つといえよう。筆者の周囲は本気モードの聴衆ばかりであり、ピリピリした空気を共有できたのが良かった。

福岡シンフォニーホールは、今回が初めてであるが、残響の長さの受容の仕方で大きく評価が分かれるホールであると感じた。よく計算された設計ではあるが、例えば、ウィーン楽友協会のムジークフェライン大ホールとは異なり、音の持続が人工的で、響きの減衰が少ない。そのため、サンクトペテルブルグ・フィルのようなパワーのあるオーケストラが演奏をすると、音が飽和し、混濁してしまうという問題が生ずる。また、鍵盤楽器の硬質な響きも、個人的には違和感を覚えた。最高音域で不思議な耳鳴りを微かに感じたのは、気のせいであろうか。

さて、プログラム前半は、ピアノ協奏曲第1番。エリソ・ヴィルサラーゼが独奏を務めた。

第一楽章冒頭では、オーケストラの体温が低く、やる気が全く感じられなかったが、展開部に入るあたりから、徐々にエンジンがかかり始める。独奏とオーケストラの掛け合いは、協奏曲の醍醐味。肉厚骨太な響きで展開される対話は、なかなか聴き応えがあった。また、大河のように雄大に流れる旋律と、その内側で渦を巻く水流との対比が、作品の構造を明晰に示していた。力強いタッチで押し進めるヴィルサラーゼの独奏も、筋が通っていた。もっとも、彼女の場合、アンコールで演奏したシューマンの作品の方が合っているように感じた。

第二楽章になって、ようやくこのホールの音響に身体が馴染んだようだ。色彩感が豊かで、心に癒しがもたらされる。彼らならではの美しさに満ちた緩徐楽章であった。

第三楽章は、ヴィルサラーゼが随所で仕掛けるが、残響が長いこのホールでは、舞台奥に並ぶ管楽器を中心に、レスポンスの遅れが露呈してしまう。スリリングさは満載であったが、崩壊の危機も散見され、手に汗を握る演奏であった。

今回の来日期間中、健康が不安視されていたテミルカーノフも、この日は、朗らかな表情で、元気いっぱい。オペラ指揮者としての掌握力が光っていた。ホールの響きに慣れていないオーケストラの内部では、色々と乱れが生じるが、ここぞという箇所で、わずかな合図とアイコンタクトにより、音楽の流れを阻害せずに、アンサンブルを立て直す技は、神の手といっても過言ではない。オーケストラ全体のテンションの高め方も秀逸。マエストロの本気を観たように思う。

休憩を挟み、プログラム後半は、交響曲第4番。これは、凄まじい演奏であった。

第一楽章の序奏部は、異様に重い。運命の動機が呻き声のように突き刺さる。たった数十小節の間に、聴き手の意識は深遠な世界へと連れて行かれた。和音の一つひとつから、ロシアの原野が眼の前に拡がるのだ。

主部に入ると、一転して快速テンポで進行する。しかし、忙しなさは全く感じさせない。長い旋律を一息で運ぶフレージングは、起伏に富んでいて、ダイナミック。8分の9拍子ともベストマッチである。内側からあふれ出る旋律の交錯と、永続的に回転する拍子感、それらを支配する淡い陰影、流れを断ち切る運命の動機。この作品の神髄を突く素晴らしさだ。

提示部では冷静さを保っていたが、展開部に入ると、演奏のテンションは一気に高まり、畳み掛けるように凄みを増した。火山帯の噴火のように、至る所からモチーフが噴出。完璧なる足し算の世界だが、足腰がふらつくことなく、足せば足すだけボリュームが増してゆくこのオーケストラのポテンシャルの大きさには驚愕。再現部直前のクライマックスは、聴き手の心を完全に打ちのめす壮絶なドラマであった。

再現部に入っても、音楽の拡がりはとどまるところを知らない。最弱音で奏される第二主題の素朴な美しさは、あまりに自然であるがゆえに、逆に恐ろしい。また、第二主題に覆いかぶさるように反復される第一主題も、この作品の奥深さを語るには十分な存在感を示していた。なお、抑制的なコーダは、第二楽章以降への期待感を高める絶妙な演出であった。コーダを煽ると、第一楽章で完結してしまうので、作品の流れにそぐわないのである。

第一楽章が終わった時点で、周囲からはため息が漏れる。期待スイッチ全開の中で迎えた第二楽章の味わい深さは、もう二度とお目にかかれないのではないかと疑わずにはいられない水準にあった。わずかなアゴーギクとディナーミクは、ロシア語のイントネーションに由来すると思われる。韻を踏んだ言い回しと和声感は、母国語とする者にしか成し得ないであろう。少なくとも記譜上は、読み取ることが不可能。とりわけ、オーボエ独奏のカンタービレには魂が宿っており、これを受け継ぐ弦楽器セクションも、哀愁に満ちた静かな語り口で、俗世とは決別する。対する中間部は、品格を保ちつつ、壮大なスケールで展開。湧き上がる旋律美は、時空を超える拡がりをみせた。

第三楽章は、弦楽器のピッツィカートが凄い。空間を最大限に活かしたディナーミクで、タテの奥行きを脳裏に刻む。合いの手を務める木管・金管楽器も、エッジが効いており、面白さが倍増。生命力にあふれるロシアンダンスである。

満を持して到達した第四楽章は、笑ってしまうくらいに驚異的なスピードだ。一糸乱れぬアンサンブルは、ムラヴィンスキー時代を彷彿とさせる。このテンポでも音が痩せないのは、彼らの凄さの一つといえようか。歓びに満ちた第一主題、自信に満ちて突き進む第二主題、絶大な存在感で鳴り響く運命のファンファーレ、終盤にみられた怒涛の追い込み。全てが結実した万感のフィナーレであった。

ホール内は、割れんばかりの拍手に包まれる。この熱狂ぶりは、本物であった。アンコールは二曲。ニュアンスに富んだ「愛のあいさつ」は、終盤のクライマックスに姿を見せた悪魔的な表情とともに、内容の濃い印象的な演奏。「プルチネッラ」から「ヴィーヴォ」では、パンチの効いた愉快な表情が愉しめた。

終演後は、久しぶりに、中洲の「寿司岩正」と「Bar Vespa」へ。短時間の滞在ながら、十分な内容の酒食に満たされる。午後8時すぎに中洲を出て、慌ただしく空港に向かい、ANA272便で帰京。充実の日帰り遠足であった。


(公演情報)

2014年2月1日(土)15:00開演
会場:福岡シンフォニーホール

指揮:ユーリ・テミルカーノフ
ピアノ:エリソ・ヴィルサラーゼ

サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲 第1番
(アンコール:シューマン:森の情景 op.82より 予言鳥)
チャイコフスキー:交響曲 第4番 ヘ短調 op.36
(アンコール:エルガー:愛のあいさつ op.12、ストラヴィンスキー:プルチネルラ組曲より ヴィーヴォ)
[2014/02/02 10:44] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグフィル―来日公演①
1月26日午後1時半すぎ、みなとみらいホールへ。ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団による来日公演。この日は、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とムソルグスキーの「展覧会の絵」という名曲プログラムである。日曜日のマチネということもあり、客席はほぼ満席の盛況ぶりであった。

筆者の座席は、1階席7列目中央下手より。みなとみらいホールは、1階席でも、4列目から傾斜がついているので、音が頭上を通過するようなことが起こらないのがよい。7列目だと、舞台上の奏者と同じ目線となるため、ヴァイオリン協奏曲に照準を合わせた今回のポジショニングは、正解であった。

プログラム前半は、庄司紗矢香を独奏に迎え、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。前評判は高かったが、その期待をさらに上回り、内容の深さとスリリングさが相まった大変刺激的な名演であった。

この作品に関しては、筆者自身としても、学生時代に独奏パートを勉強し、また、市民オーケストラではコンサートマスターとして伴奏も担当するなど、様々な場面で、繰り返し接してきたが、正直なところ、作品に魅了されたことはあまりなかった。しかし、この日の演奏に触れたことで、ようやく作品の全容が見えるとともに、その面白さが理解できるようになったようだ。

庄司の演奏は、チャイコフスキーの音楽とストイックに向き合う正攻法によるアプローチ。ヴィルトーゾ的な華やかさとは正反対の世界をひたむきに探究する。その卓越した作品構成力には、今回も感銘を受けた。特に印象的であったのは、第一楽章のカデンツァ後のフルートへの橋渡し。木漏れ日の温かさが春の歓びを表現していた。第二楽章に脈々と流れる民謡調の深遠な世界や、第三楽章における切れ味の明快さや弾むような推進力も、庄司らしさが全開で、素晴らしかった。

加えて、この日の演奏で顕著にみられたのは、ロシア風の演奏スタイルとの完璧な共鳴である。旋律の端々に表れるタメとコクが、ロシア風のイントネーションと合致し、オーケストラが奏でる伴奏との間で、見事なコラボレーションを生み出す。これこそがチャイコフスキーともいうべき、厚みと温もりのあるオーケストラの余韻を、完全に味方につけ、表現の幅を倍増させていた。今回の演奏に向け、ロシアの語法やイントネーションを徹底的に研究し、自らの音楽表現にまで高めた成果が、如何なく発揮されていたといえる。

技巧を見せびらかすような場面が皆無であるため、一見すると地味であり、抑制された演奏にも映るが、巨人たちに囲まれた少女が舞台上で発するエネルギーは物凄い。このオーケストラの場合、内在する破壊力は半端なく、ちょっと仕掛けると、猛獣のように襲い掛かってくるが、そんな彼らと対等に渡り歩き、丁々発止の駆け引きを展開し、最後には力強い絆を結んでしまう庄司のセンスと度胸には、毎度のことながら、驚かされる。

ちなみに、この日の名演が生まれた背景には、指揮者、独奏者、オーケストラの間の抜群の信頼関係があったことを忘れてはならない。指揮台から保護者のような眼差しで見守るテミルカーノフ、ちょっと仕掛けてははにかむ庄司、そんな様子を温かく受容するオーケストラ。こうした真剣勝負の中に見え隠れした微笑ましさは、忙しい現代人の多くが忘れてしまっているのではなかろうか。カーテンコール時に、オーケストラの年配世代を中心に、鼻の下が伸びきっていたのが今でも目に焼き付いている。

プログラム後半は、ムソルグスキー(ラヴェル編曲)の「展覧会の絵」。ロシアのパワーをこれでもかと見せつけられた圧倒的な演奏であった。筆者は、この作品も過去に何回も耳にしている(筆者自身もオーケストラで弾いたことがある)が、ここまでの衝撃を受けた記憶はない。

この日のテミルカーノフの指揮は、読響に客演するときとは比べ物にならないほど、自由であり、スケールが大きく、威厳があり、ロシア魂に満ちたものであった。オペラ指揮者としての造詣も深いテミルカーノフのセンスは、この作品のような標題音楽では、より一層引き立つ。途中に挿入される各プロムナードの描き分けも含め、全体のヴィジョンが明快であり、展覧会をダイジェストで駆け抜けたような充実感があった。また、曲ごとにみても、品格とバランスを保ちつつ、内容的には、強い意志の宿る直球勝負の演奏で、ニュアンスにも富んでいた。

中でも、第一曲「グノームス」では、死にたくなるような重い音色と、断末魔の叫びをも切り捨てるような厳しさが突出していた。第二曲「古城」では、弦楽器が演出する雄大な空間の中に、物悲しい歌が鳴り響く。第四曲「ビドロ」では、低弦の奏でる牛車の軋みが、虐げられた民衆の苦悩を物語るようで、生々しい。そして、度肝を抜かされたのは、第十曲「キエフの大門」。地鳴りのする爆発的な金管打楽器セクションと、賛美歌風の木管セクションとの対比が見物であった。あれだけのダイナミクスレンジを演出しながら、音色が濁らず澱まないのは、驚異的である。最後までテンポを緩めることなく、まっすぐ豪快に鳴り響いたフィナーレは、胸がすくほどに見通しが良かった。

プログラム全体を通じて、彼らの演奏から滲み出ていたのは、音楽に賭ける意気込みの高さと絶対の自信である。アンサンブルに関しては、タテの線を合わせることには無関心で、ヨコの流れで互いに協調し、合流するというスタンス。コンクール的には、これでは落第点が付くであろう。しかし、こうしたテミルカーノフ時代に育まれてきた様式は、ロシアの伝統と相まって、実に男らしく、雄弁な音楽表現へと結びついた。ロシア民謡に由来する大らかで雄大なカンタービレ、情景を描き出す抜群の表現力、ロシアの風土に裏打ちされた音色の味わい、個性と自発性に富んだ積極的姿勢は、旧きよき時代の「香り」の進化版であり、彼らの存在は、グローバルスタンダード化が進む現代において、非常に貴重といえる。舞台上での彼らは、愛想をふるまうこともなく、実に素直である。しかし、洒落た雰囲気のアンコールで、会場を和ませ、舞台を後にした彼らを見て、この人たちは凄いと確信した次第である。


(公演情報)

2014年1月26日(日)14:00開演
会場:みなとみらい大ホール

指揮:ユーリ・テミルカーノフ
独奏:庄司紗矢香(Vn)

サンクトぺテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35
(アンコール:パガニーニ:「虚ろな心の主題による変奏曲」よりテーマ)
ムソルグスキー(ラヴェル編曲):組曲「展覧会の絵」
(アンコール:アルヴェニス:タンゴ)
[2014/01/26 20:16] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(2) |
カンブルラン指揮読響―第533回定期演奏会「イタリアのハロルド」ほか
1月14日午後7時前、サントリーホールへ。シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団による第533回定期演奏会。G.ガブリエリ、ベリオ、ベルリオーズの3作品による意欲的なプログラムが披露された。

筆者の座席は、指定席であるRB9列目。入場者数は6割程度か。後半になって若干持ち直したものの、1階席の最前方及び後方にまとまった空席があったほか、2階席も、Cブロック後方やRD及びLDブロックがほとんど埋まっておらず、ステージを囲む座席も半分程度の埋まり具合であり、全般的にかなり空席が目立った。地味なプログラムゆえ、やむを得ないのかもしれないが、こうしたプログラムで集客できないとなると、東京のクラシック音楽界の先行きは暗いといわざるを得ない。

さて、プログラム前半一曲目は、ガブリエリのカンツォーナ。サクラ・シンフォニア集からの選曲である。ヴェネツィアのサン・マルコ寺院のステレオ効果を活かすべく、カンブルラン自身の編曲により、三つの楽器群(舞台中央奥にトランペットとトロンボーン、真ん中にオーボエ、イングリッシュ・ホルンとファゴット、前方に指揮者を囲むように弦五部)によって演奏された。

教会旋法をもとにしたポリフォニックな作品であり、実際、イタリアの教会を想起させるような柔らかい響きは、サントリーホールの空間には非常に新鮮に響いたことは確かだ。弦楽器の人数を4-4-4-3-2に絞ったことで、舞台上の空間に隙間ができ、音の分離が物理的にも感じとれたこともプラスに働いていた。しかし、金管楽器を中心に細かいミストーンが少なくなかったことに加え、オーケストラ全体としても、ポリフォニックな和声進行に不可欠な純正律によるハーモニーがほとんど成立しておらず、かなりの違和感があった。弦楽器はノン・ビブラートで端正に演奏していたが、当然のことながら、古楽器であれば醸し出せるような香りやボリューム感は期待できず、存在感を発揮しきれなかったことは否定できない。カンブルランのアイデアは面白かったが、結果的には、企画倒れとなってしまったようにも思われる。

プログラム前半二曲目は、ベリオのフォルマツィオーニ。時代は、ガブリエリの活躍したルネサンス後期ないしバロック初期から、20世紀後半へと飛ぶ。一曲目との共通項は、イタリアの作曲家であるという点と、複数の楽器群に分かれて演奏されるという点。なかなか凝った選曲である。

筆者の座席は、RBブロックであるため、左右対象に配置された金管楽器が生み出すステレオ効果などは、十分には把握できなかったが、七つの楽器群に分けられた楽器配置から発せられる音響は、ガブリエリの作品で感じたものとは別の意味で新鮮であり、特殊な楽器の組み合わせから生まれる音色の面白さを満喫させてくれるものであった。その点では、カンブルランの意図はそれなりに達成されていたのではなかろうか。ただ、この作品に秘められた斬新さや衝撃が十分に再現されたかといえば、まだまだ至らない点があったようにも思われる。

読響は、この複雑怪奇な作品をキチンと処理できており、この点では、一定の評価は可能であろう。ただ、カンブルランを除くと、ステージ上で、この作品の全体像を掌握できていた者はおそらく存在せず、各プレイヤーは、自分のパートを処理することに精一杯になってしまっていたように見受けられた。それゆえ、楽器の重なり合いにより生み出される音響効果を見越した奏法というところにまで、考えを至らせるだけの余裕がなかったのではなかろうか。また、中盤は割とよい流れが生まれていたものの、全般的に恐る恐る音を発するような場面が多く、複数の楽器群から同時あるいは時差をもって発せられる音の衝突がもたらすであろうスリルは体感できなかった。準備期間がもう少し長ければ、そうした音の連関にまで意識を向けることが可能となり、よりビビッドなスペクタルが花開いたであろう。惜しい仕上がりであった。

休憩を挟んで、プログラム後半は、ベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」。独奏は、カンブルランの指名を受けた読響ソロ・ヴィオラ奏者の鈴木康浩が務めた。

さすがはカンブルランから「一緒に《ハロルド》を演奏したい」と熱望されただけのことはある。鈴木の奏でる明るく朗々としたヴィオラの音色は「ハロルド」そのものであり、その発せられた最初の音から直感的に全てが受け入れられるような感覚となった。オーケストラの方も、第一楽章冒頭では、ベリオの余韻が残り、音色に硬さが残っていたが、鈴木が「ハロルド」語りを始めると、明るく優しく柔らかい響きへと瞬時に様変わり。ホール全体の集中が高まり、その後は、カンブルラン、鈴木、読響の三者の固い絆に後押しされ、熱い想いのほとばしる神がかり的な演奏へと高まっていった。

この日の名演を支えたのが、カンブルランのオペラ指揮者としての卓越した手腕であることは、言うまでもない。独奏とオーケストラのアンサンブルの橋渡しから、響きのバランス、全体構成を踏まえたテンションの運び方まで、そのセンスは見事に発揮されていた。最終楽章において、弦楽アンサンブルをオルガン前に別配置し、「ハロルド」役の鈴木がPブロックに降り立ち、客席最前方で最期を奏でるというアイデアは、なかなか斬新であった。

しかし、筆者は、この作品におけるカンブルランのタクトから、そうした空間デザイン的な演出とは別の次元で、演奏自体において、彼自身の強い「意志」を感じ取った。この日、カンブルランが目指したものは、彼が得意とするような色彩感の豊かな美しい世界とは、やや趣きが異なっていた。むしろ、ハロルドという人物の人間臭い部分も含め、生の世界と正面から向き合おうとしていた。それゆえ、カンブルランのタクトは、個々の響きを綺麗に創り込むというよりも、読響らしさを全面的に受容した上で、オーケストラと四つに組み、その魅力を最大限に発揮できる方向で、汗臭い共同作業にどっぷりと浸るスタンスであった。交響曲全体を「ハロルド」を主役とした一つの「オペラ」として捉え、ベルリオーズの描いた人物像に全員で共感をしながら、ホール全体で同じ時間の流れを共有することにより、日本人の潜在意識の中にある強い結束力を呼び覚ます。カンブルランとしても、このような音楽体験を実現できるのは、世界中を探しても、この日本だけなのではないだろうか。カンブルランの常任指揮者就任から四年弱を経て、このコンビが新しい扉を開いた瞬間に立ち会えたような予感がした。

音楽には「力」がある。終演後は、割れんばかりの拍手に包まれた。この少ない入場者数からは想像ができないくらいに、拍手の音量が大きく、そして演奏に負けないくらいに拍手が熱かった。近年稀にみるほどの充実した名演であり、筆者個人としても、年明け以来、もやもやとしていた気持ちがスカッと晴れ、元気をもらえた素晴らしい演奏会であった。


(公演情報)

第533回定期演奏会

2014年1月14日(火) 19:00開演
会場:サントリーホール

指揮=シルヴァン・カンブルラン
ヴィオラ=鈴木康浩(読響ソロ・ヴィオラ奏者)

ガブリエリ:カンツォーナ(「サクラ・シンフォニア集」から/カンブルラン編)
ベリオ:フォルマツィオーニ
ベルリオーズ:交響曲「イタリアのハロルド」 作品16
[2014/01/15 00:01] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
カンブルラン指揮読響―第5回東京オペラシティプレミアムシーズ
1月8日午後6時半前、オペラシティへ。シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団による第5回東京オペラシティ・プレミアムシリーズ。シューマンとラヴェルの作品が採り上げられた。

体調が優れず、仕事も立て込んでいたことから、振替えをするか迷ったが、午後になって足を運べる見込みとなったことから、チケットセンターに電話を入れ、急遽、2月の定期公演からの振替えで来場した。筆者に割り当てられた座席は、1階5列中央。前2列がステージの拡張により取り外されていたため、実質的には3列目に相当する。ステージまでの距離が近すぎるため、全体の響きを追いかけることができないが、サントリーホールなどの最前列に近い場所よりもまとまりは良く、生音の不快感は少なかった。

ところで、このシリーズでは、本プログラムの開演前に、室内楽の演奏が催される。ロジェ・ムラロと読響メンバーによる室内楽と称して演奏されたのは、シューマンの幻想小曲集と、バルトークの6つのルーマニア民族舞曲の二曲。

一曲目の幻想小曲集のクラリネットの独奏は、首席奏者の藤井洋子が務めた。シューマンらしい理想的なピアノ伴奏に乗り、柔らかく滑らかなサウンドでシューマンの歌曲を披露。音程が定まりきらない箇所も散見されたが、オープニングとして悪くない演奏であった。

続くバルトークは、昨年の定期公演でも演奏されており、今回はそのヴァイオリン独奏ヴァージョンである。なかなか気が利いた選曲ではあるが、シリーズが異なるので、その共通性に気付いた者は少数であろう。ダニエル・ゲーデの独奏は流石の貫禄であり、理知的な設計のもとで、身体から湧き上がる舞曲の拍子感とシャープな切れ味が冴え渡る。旋律にふくよかさが感じられるとより官能的な演奏になったようにも思われるが、フランス人のムラロとドイツ人のゲーデという異なるセンスの持ち主がそれぞれの感性をぶつけ合う刺激的な演奏となった。

さて、本プログラム前半は、シューマンの二作品。

一曲目の「マンフレッド」序曲は、なかなか聴き応えがあった。読響の特長である骨太なサウンドに、中低弦の重厚な力強さが加わり、スケールの大きな造形が打ち出されたこと、その骨格の中で、響きの色分けが明快かつ的確にコントロールされ、デジタルな鮮やかさにより浮かび上がったこと、また、明るく若々しいフレージングにスピード感があったことから、垢やホコリが洗い流された気持ちの良い音楽に仕上がった。今回のプログラムに関しては、この日が2日目にあたるが、初日の演奏終了後に聞かれたような不完全燃焼といった印象はなく、読響らしい前向きで熱のこもった演奏であったと思われる。

二曲目は、ロジェ・ムラロを独奏に迎え、シューマンのピアノ協奏曲。この日は、特にムラロの独奏に魅了された。クリアなタッチで、音の芯が明快であることに加え、発音と発音の隙間にまで音色が均質に詰まっており、フレージングの素晴らしさに非常に長けていた。シューマンらしい揺らぎも、完璧な計算を基礎としつつも、人の呼吸に適った自然体で表現されており、非の打ち所がない。カンブルランやコンサートマスターのゲーデとの相性もバッチリで、天才的な賢さの3名によるアンサンブルは、この作品の魅力を語るに十分なものであった。オーケストラに関しては、第一楽章冒頭から、木管楽器のハーモニーが定まらず、冷や冷やする箇所も少なくなかったが、ゲーデの醸し出す柔らかく繊細なフレージングに助けられ、流れよく進行。第三楽章では、スケールの大きい堂々たる演奏により、ムラロの独奏をサポートしていた。作品全体を通じ、筋の通ったブレのない演奏であったといえる。

ソリストによるアンコールは、バッハ(ムラロ編)の「Bist du bei mir」と、ラヴェルのソナチネから第二楽章の二曲。シューマンの余韻を活かしつつ、若干の華を添えるというアンコールの意義を踏まえた後味の良いデザートであった。

プログラム後半は、ラヴェルの二作品。

一曲目は「高雅で感傷的なワルツ」。バランスのよい演奏で、安心して聴けた点では、悪くなかった。ただ、生真面目すぎて、面白味に欠けるようにも感じられた。ラヴェルが描いたオーケストレーションの緻密さの片鱗を、頭で理解することは出来たが、各ポーションから滲み出るはずの色合いが開花する次元にまでは到達していなかった。その原因は、おそらくオーケストラ側にある。木管楽器を中心に音程のズレが響きを濁らせ、弦楽器のプルト間に温度差が生じていたことが裏目に出ていたようだ。特に、ファーストヴァイオリンは、コンサートマスターのゲーデと、それ以外の奏者との間には、ボウイングや音程の正確さにおいて、明らかな差があった。初日の演奏終了後の評判は良かっただけに、残念である。

二曲目は、スペイン狂詩曲。こちらの印象も、前の曲と大きな違いはない。解像度はある程度は高まったが、この作品のポテンシャルを十分に引き出すには、オーケストラの状態が万全ではなかった。カンブルランのタクトの情報量の多さ、とりわけ、響きの重心とニュアンスのコントロールの的確さを、ステージ間近の座席で観察できたという意味では、得るものは大きかったが、カンブルランのタクトやゲーデのリードから感じられる音楽が、必ずしも実際の音には結びついていなかった点には、もどかしさを覚えることも多かった。最終楽章の「祭り」では、高揚感はあったが、トータルでみると、ベストな状態であれば到達できたであろう圧倒的なレベルではなかった。聴く場所によっては、オペラシティの豊かな残響に助けられ、かなり違った印象になったのではないかと思われるが、間近で聴くと、どうしても粗が目立ってしまい、今ひとつ気分が乗り切らなかった。

アンコールは、ビゼーのカルメン前奏曲。カンブルランとゲーデのフレージングの巧さが光っていたが、それ以上に見るべき点はあまりなかった。スペイン繋がりの選曲といえるが、個人的には、あってもなくてもよかった。

週明けの定期公演では、カンブルランと読響が兼ね備えるポテンシャルが十分に発揮されることを期待。


(公演情報)

第5回東京オペラシティ・プレミアムシリーズ
2014年1月 8日(水) 18:30開演

会場:東京オペラシティコンサートホール

指揮=シルヴァン・カンブルラン
ピアノ=ロジェ・ムラロ

【第1部】
ロジェ・ムラロと読響メンバーの室内楽
シューマン:幻想小曲集 作品73(クラリネット:藤井洋子)
バルトーク:ルーマニア民族舞曲(ヴァイオリン:ダニエル・ゲーデ)

【第2部】
シューマン:「マンフレッド」序曲
シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54
ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
ラヴェル:スペイン狂詩曲
[2014/01/11 20:20] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ウィーンリングアンサンブル2014
1月6日午後7時前、サントリーホールへ。ウィーン・リング・アンサンブルによる24回目の来日公演。2014年最初のコンサートに相応しいニューイヤーコンサートである。

2013年3月に67歳で逝去したヴォルフガング・シュルツのポジションは、ウィーン・フィルのソロ・フルート奏者であるカール=ハインツ・シュッツに受け継がれた。その前年に加わったダニエル・フロシャウアー、ロベルト・ナジ、ヴォルフガング・トムベックの3名も合わせると、実に9名中4名が入れ替わったことになる。無邪気に駆け回るシュッツの軽快な音色。両隣の重鎮らと呼吸の合ったアンサンブルで存在感を示したフロシャウアー。安定感抜群かつ伸びやかな音色で魅了するナジ。全体の響きの色合いを舞台照明のように地味にコントロールするトムベック。今年の来日公演では、そんな新たに加わったメンバーが巻き起こした「風」が、ウィーン・リング・アンサンブルの演奏スタイルに対して、大変面白いかたちで作用し、丁々発止の刺激的な演奏会となった。

筆者が確保した座席は、1階席4列目上手側端。ライナー・キュッヒル、ダニエル・フロシャウアー、ハインリヒ・コルまでは十分に視界に入るが、その他のメンバーは、ロベルト・ナジとミヒャエル・ブラデラーの両名の背中越しに覗くような格好になる。そのため、各楽器の音がバランスよく分離して聴こえることに加え、メンバー間のアイコンタクトや駆け引きを間近に観察できる。ペーター・シュミードルの表情を十分に拝めなかったのは心残りだが、逆に、日頃はあまり陽の当たらない中低声パート(セカンド・ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ホルン)の絶妙な間合いと職人的な技巧の数々には、ため息が出てしまった。

ところで、ウィーン・リング・アンサンブルのメンバーと、元日の夜にミュンヘンを発つ飛行機で乗り合わせたことは、既にご報告済みだが、驚いたことに、彼らは日本に到着した翌日夜のNHKニューイヤーオペラコンサートに特別ゲスト出演するとともに、1月4日には名古屋で、また1月5日には埼玉で、それぞれ公演を行っている。そのタフさには畏れ入るばかりであるが、さすがの彼らにとっても、今回の旅程は、かなりの過密スケジュールであったと思われ、この日の公演の前半プログラムでは、表情から疲労の色が窺われた。

プログラム前半は、シュトラウス一家の5作品。

オペレッタ「ジプシー男爵」序曲とワルツ「天体の音楽」は、オーケストラによる演奏に馴染んでいる耳には、9名のアンサンブルでは物足りなさも感じる。特に、旋律を一手に任されたファースト・ヴァイオリンは、名手キュッヒルをしても、そのボリューム感を表現するのは難しい。幕開きの曲ということもあり、旋律の歌い方にやや力みや硬さがあるようにも受け取れた。とはいっても、ウィーン・フィルの腕利きの主要メンバーたちによるアンサンブルの凄味は、随所に煌めく。響きの転換の鮮やかさ、重なり合う楽器の響きのふくよかさは、ウィーン・フィルによる演奏を凌ぐほどに純度が高い。少なくとも主要メンバーの間では、ウィーンの流儀が中堅や若手へと継承されていることを再確認することができた。

他方、「アンネン・ポルカ」は、作品構成がアンサンブルに適しているため、演奏に無理がない。一つひとつ丁寧にカッチリとニュアンスを付けるキュッヒルの表情は、真剣そのもので、作品の名称から読み取れる女性的なニュアンスからは程遠い。しかし、旋律の魅力は最大限かつ完璧に引き出されており、聴きごたえがあった。

続くワルツ「オーストリアの村つばめ」では、ペーター・シュミードルとヨハン・ヒントラーがそれぞれ客席から演奏をして登場するという演出で、客席を驚かせる。また、シュミードルは、鳥のさえずりを随所にちりばめ、真顔のキュッヒルと対峙するという一幕まであった。結果、会場の空気が和み、音楽自体に伸びやかさが生まれてきたようだ。活き活きとしたワルツの節回しと優雅な拍子感が実に心地よかった。

プログラム前半の締め括りは、ポルカ・シュネル「ハンガリー万歳」。あのカルロス・クライバー盤を上回るほどの超高速で、度胆を抜かれる。猛烈な勢いで煽るシュッツに、キュッヒルとコルがムキになって挑み、ナジとブラデラーが乗り遅れまいと喰らいつく。それでも動じないトムベック。外面的には綺麗にまとまって聴こえるのだが、テーブルの下ではボールの蹴り合いが繰り広げられていた。見ているだけで吹き出してしまいそうな光景であった。

休憩を挟み、演奏に落ち着きと柔軟さが加わった。

プログラム後半一曲目は、オペレッタ「くるまば草」序曲。キュッヒルの奏でるワルツの旋律に、伸びやかさと艶やかさが戻る。この日のベストともいえる充実の仕上がりであった。二曲目のプッチーニのオペラ・メドレーは、「ボエーム」の各旋律を主軸に据えつつ、他のオペラの名旋律をいくつか挟み込むという構成。ウィーン流のプッチーニは、イントネーションが独特ではあるが、響きの造り方が一貫していて、全くブレない。そして、美しい。オペラの各場面が鮮明に映像として浮かび上がっているかのような錯覚に陥ったのには、驚かされた。オーケストラ・ピットから湧き上がるような高揚感とともに、クライマックスで紅潮したコンマス・キュッヒルの一面も窺われ、印象深い演奏となった。

三曲目のワルツ「うわごと」も、冒頭のトレモロから響きの立ち方が尋常ではなかった。歌曲的な旋律の繊細さは、ニュアンスに富む。芳醇な響きの拡がりに、素直に身をゆだねることができた。続くワルツ「モーツァルト党」では、モーツァルトらしい青白く透明な響きが新鮮。ワルツのリズムに基づき改作されているのに、モーツァルトそのものが前面に現れてくるのが不思議だ。モーツァルトに対する彼らの本気モードを垣間見られた。

プログラム後半の最後に演奏されたのは、エジプト行進曲と、オペレッタ「メリー・ウィドウ」から「女・女・女のマーチ」。この2曲に関しては、仕込んだネタが炸裂。実はこれが一番やりたかったのではないかと思われるドラマー・キュッヒルによる大太鼓とシンバルに、「おんなー」という掛け声で会場を笑いの渦に導いたシュミードルの一発芸。どんなにふざけても、演奏自体が完璧なので、超一流の芸として、ネタが鮮やかに決まる。

アンコールは、ツィーラーのポルカ「気も晴れ晴れと」、J.シュトラウスIIのワルツ「美しく青きドナウ」、J.シュトラウスIのラデツキー行進曲。「美しく青きドナウ」は、泣く子も黙る神々しい演奏で、思わず襟を正したくなる。この作品を聴いて感動したのは、これが初めてだ。ラデツキー行進曲では、シュミードルが会場の手拍子をコントロールし、朗らかな雰囲気で演奏会はお開きに。

繰り返しになるが、この演奏会は、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートよりも、はるかに完成度が高いし、内容的に充実している。本当に貴重な機会だ。この日は、某社の招待客が百名近く動員されていた模様。結果として、空席は昨年よりも少なかったが、演奏会の価値が理解できない層が多数来場したことにより、会場の空気が乱れていたのが口惜しかった。もう少し小さな会場で、これらの作品と真剣に向き合える聴衆だけを集めて、演奏会が開催されることを強く望む。


(公演情報)

ウィーン・リング・アンサンブル 日本ツアー 2014
1月6日(月)19:00 サントリーホール

ライナー・キュッヒル(ヴァイオリン)
ダニエル・フロシャウアー(ヴァイオリン)
ハインリヒ・コル(ヴィオラ)
ロベルト・ナジ(チェロ)
ミヒャエル・ブラデラー(コントラバス)
カール=ハインツ・シュッツ(フルート)
ペーター・シュミードル(クラリネット)
ヨハン・ヒントラー(クラリネット)
ヴォルフガング・トムベック(ホルン)

J.シュトラウス II : オペレッタ「ジプシー男爵」序曲
ヨーゼフ・シュトラウス : ワルツ「天体の音楽」
J.シュトラウス II : アンネン・ポルカ
ヨーゼフ・シュトラウス : ワルツ「オーストリアの村つばめ」
J.シュトラウス II : ポルカ・シュネル「ハンガリー万歳」
J.シュトラウス II : オペレッタ「くるまば草」序曲
プッチーニ : オペラ・メドレー
(プッチーニ没後90年記念/「ラ・ボエーム」「蝶々夫人」などから)
ヨーゼフ・シュトラウス : ワルツ「うわごと」
ランナー : ワルツ「モーツァルト党」
J.シュトラウス II : エジプト行進曲
レハール : オペレッタ「メリー・ウィドウ」から「女・女・女のマーチ」
[2014/01/07 17:30] | 国内視聴記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
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